時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

「印刷と美術のあいだ」展: 真摯に学び、教えた人たちの群像

2014年12月01日 | 午後のティールーム

 

グーテンベルグ聖書ルカ伝の1ページ
印刷博物館の展示では、この聖書の精巧な
模造モデルも見ることができる。この聖書
をめぐっての最近の話題については、
別途記したい。 



 このところ、一回の記事が長くなっている。ある程度意図した結果で、管理人の記憶力衰退を補う覚え書きの面が強くなっているためである。iPhone, iPodなどの小さな画面では読みにくい。PCなど大きな画面でお読みいただくことをお勧めするしかない。 

 


 異なった地域や国の間で、美術や工芸の技術がどのように伝達されてゆくかという問題(技術移転)にかなり関心を持ってきた。その一端は最近のブログにも記したことがある。たまたま『印刷と美術のあいだ:キヨッソーネとフォンタネージと明治の日本』(印刷博物館)という展示が行われていることを知り、出かけてみた。地味なテーマということもあるのか、上野の博物館・美術館界隈の混雑とは打って変わった静けさの中で、ゆっくりと見ることができた。かねてから興味を持っていることもあるが、大変充実した時間を過ごすことができた。水準の高い展示内容で、ご関心の向きにはお勧めである。

 新しく発見したり、確認できたことは、あまりに多くてブログにはとても書き切れない。ひとつだけ記してみたい。キヨッソーネ Edoardo Chiossone (1832-1898、昔の教科書などにはキヨソーネ、キヨソネなどと表記されていたように記憶)とフォンタネージ Antonio Fontanesi (1818-1882)の2人のイタリア人のことは、概略知っていたが、記憶を新たにするため、簡単におさらい?すると、次のようなことである。

 エドアルド・キヨッソーネは、1875年(明治8年)、明治政府が紙幣を国内で製造するための技術者として、さらにその技術を継承する者を育成・教育するために、イタリアから招聘された。日本の風土が合ったのか,その後16年間にわたり,印刷局に勤め、退職後も帰国することなく日本で生涯を終えた。版画家として、凹版を中心とした銅版彫刻の技法を職人に伝授し、さらに偽造防止を目的とした石版印刷の研究なども行った。展示を見ると、その功績がいかに大きなものであったかが伝わってくる。

 ちなみに、日本はそれまでドイツのドンドルフ・ナウマン社に紙幣(ゲルマン紙幣)の製造を発注していた。キョッソーネは、当初未だ国家的統一がなされていなかったイタリアで最有力であったイタリア王国銀行で嘱託職員として採用され、ドンドルフ・ナウマン社へ派遣され、凹版彫刻、凸版などの製版技術を習得中であった。しかし、雇用条件などをめぐり紛争があったようで、キヨッソーネは世界的な紙幣印刷会社・デラルー社へ就職し、ロンドンに移っていたらしい。

 明治政府は破格の雇用条件を提示して、お雇い外国人技術者として日本へ迎えたようだ。「破格」の内容が実際にどのくらいのものであったかは明らかにされていなかったが、明治24年の退職時の待遇(退職慰労金3000円、終身恩給年額1000円)、明治31年日本で死去した際には築地の天主堂から青山霊園まで,儀仗兵が守って埋葬したなどの記録を見ると、明治政府や日本の関係者が彼に払った尊敬の念も多大であったことが推測できる。

 キヨッソーネは欧米からの最新技術・機械の調達などに持てる知識を十分に提供し、日本側の努力もあって、東洋一の技術者と機械設備を持つ大蔵省の大紙幣工場を東京、大手町にわずか数年で建設するにいたった。

  この人物はお雇い外国人技術者としては、当初の日本側の想像以上に優れた凹版彫刻画家・技術者としての能力を持っていたようだ。日本人技術者の養成、教育にも大変熱心だったようで、彼の退職後は印刷局も技術者不足に悩まされたようだ。

 このブログでも、ジャック・ベランジェ、ジャック・カロなどの17世紀銅版画家の生涯と作品について多少記しているが、展示されているキヨッソーネの作品を見ると、徹底したリアリズムに驚かされる。紙幣にはその国の著名な人物の肖像画が使用されることが多いこともあって、写真と見誤るくらいの精密な作品が残されている。

   他方、アントニオ・フォンタネージは1876年イタリアから来日し、工部美術学校で西洋画を担当する画学教師に着任したが、病気を理由に契約の4年よりもはるかに短い2年で帰国した。しかし、フォンタネージに学んだ生徒たちは、日本を代表する画家へと育っていった。1898年には彼らが中心となり、日本で初めての洋画家の団体、明治美術会が結成され、これには石版画工も参加し、その後の印刷に大きな影響を与えた。

 フォンタネージは滞日期間は短かったが、工部美術学校などでの教育面で、学生、画壇などに大きな影響を及ぼしたことが、展示されている作品などから十分にみてとれる。とりわけ、リトグラフ(石版画)は得意であったようだ。見事な教材もも制作、提供している。

 さらに、当時フランスから帰国した浅井忠を始めとして、小山正太郎、五姓田義松、岡村政子、亀井至一、亀井竹二郎、福富源治郎、中村不折などの画家たちの作品も展示されていて、当時の画家や書家たちの水準の高さを知ることができる。これらの画家の作品を見るのは久しぶりのことで、浅井忠、中村不折などの書画は、一時期よく見ていたので大変懐かしい思いがした。

 また、印象に残ったのは、工部美術学校での教師となったフォンタネージが描いた教材(たとえば、『風景』)を美術学校の生徒が鉛筆などで模写した作品が保存され、展示されていたことだった。きわめて正確に模写されており、当時の生徒たちの研鑽ぶりを偲ばせるものがあった。教師としてのフォンタネージは生徒の尊敬する対象でもあったようで、フォンタネージが帰国のため退職すると、後任のイタリア人教師がいたにもかかわらず退校してしまっている者がいたことからも分かる。教師のあり方を考えさせる。明治という時代、教える者も学ぶ者もまっすぐに生きていた。

 富岡製糸場を見学した際にも、思ったことだが、明治の人たちの技術習得に際しての強い向上心と努力、それに応えたお雇い外国人たちの異国での技術伝授の真摯な対応に改めて頭が下がった1日だった。


 
Reference
カタログ『印刷と美術のあいだ:キヨッソーネ
とフォンタネージと明治の日本』 2014年

コメント
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