時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

一枚の絵に世界を見る:シャルダンの《洗濯女》The Laundress ~2~

2020年10月13日 | 絵のある部屋



時代を知る貴重な作品
シャルダンの作品は静物画を含めて、風俗画、装飾画などのジャンルに分かれるが、風俗画には18世紀当時のフランス、多くはパリ、セーヌ左岸における日常生活にみられる仕事の情景を穏やかな雰囲気をもって描いた作品があり、歴史の各段階における「仕事(労働)の記録」に格別の関心を抱いてきた筆者にとっては、無視できない得難い画家のひとりである。写真のような媒体が未だなかった時代にあって、通常はほとんど描かれることのない時代の仕事のありさまを推測するに、絵画は大変貴重な情景を今日に伝えてくれる。

この作品に限ったことではないが、シャルダンの作品はきわめて細部にいたるまで手を抜く?ことなく、描きこまれている。女性が仕事の道具としている樽は、その板材、タガにいたるまで、細密に描かれている。この作品では視認しがたいが、画家の署名は洗い桶が置かれた台に記されている(エルミタージュ美術館所蔵の同一テーマの作品は画面左上)。

シャルダンの両親、そして最初の妻の両親も共に豊かではなく、加えて銀行のスキャンダルに巻き込まれ、財産を失ったと伝えられる。そのため画家は両親のためにもかなり努力をして働かねばならなかった。フォンテーヌブロー宮殿の修復作業などに参加するとともに、1730年頃から静物画の制作に傾斜している。

1733年頃から風俗画の制作が増え始めた。その大半は食卓の情景やカード遊びに興じる子供などを描いてきた。こうした努力が実って1752年以降、国王の年金を給付されている。1757年にはルーヴル宮殿にはアトリエ兼住居を授かっている。歴史画を描くことがかなわなかった風俗画家としては異例の名誉であった。穏やかな雰囲気が画面から漂ってくるシャルダンの作品には、国内外の王侯貴族に人気があった。要望に応えるため、シャルダンはしばしば同一テーマで複数の作品を残している。

白が持つ重み
これらの点を念頭において、改めてこの作品を見直すと、色彩的にも重要な意味を持つのは、白色であることに気づく。白は「清潔さ」と「折り目(秩序)」を表し、薄暗い洗濯場で支配的な重みを持っている。洗濯女として描かれた若い女性のボンネット、エプロンは薄暗い洗濯場の中で、改めて見る人の目を惹きつける。この時代、汚れのない白という色が意味した内容は、今日の想像を超えて深いものがある。単に「清潔」という次元を超えて社会的階層、富を象徴し、貴族とブルジョアの色でもあった。当時の人びとは着ている衣類とその清潔さで、いかなる階層に属するかを瞬時に判断しえた。



今日と異なって、生活の使用に耐える水は住居に近い所にある井戸か、パリの場合、セーヌ川へ行くしかなかった。水を運搬するのもメイドの仕事であった。セーヌの水はすでに黄灰色に汚れていた。当時のフランスでは、「大掃除」grand wash といわれる年2回くらい家の清掃をする慣行があったが、パリのような大都市ではほとんど行われなくなっていた。

一般の家庭には十分な物干し場もなかった。18世紀前半にはパリではセーヌ河畔に洗濯女といわれる人たちが2000人近く働いていた。洗濯は特別な仕事であった。そこへ仕事を頼む家庭もあったが、洗濯物の盗難、逸失、損傷なども多く、不満は絶えなかった。仕上がりも決して満足の得られるものではなく、礼儀や清潔を重んじる人々には耐え難いものだった。

富裕な人々、社会階層で輝くような白い衣服が必要な人々は、なんとオランダへ洗濯を依頼した人たちもいた。とりわけハーレム Haarlemは、仕上がりの白さの点でも抜きん出た水準を達成できる技術を誇り、国内外でよく知られていた。洗濯の技術と使用する水の清らかさだけが必要な条件ではなかった。輝く日光の下での漂白などの技術がそれを支えていた。さらに水準の高い仕上がりを求める場合は、奴隷が存在したグアデループやマルチニークなどの島々まで送られた。

変化した洗濯の光景
その後、洗濯の世界は大きく変化した。固形石鹸の普及がひとつの転機をもたらした。それ以前は自宅の暖炉か灰を売る業者から木灰を入手していた。石鹸は木灰よりも手にやさしく、すすぎの回数も少なくてすんだ。中でも最古のものはSavon de Marseilleで、今日でも使用されている。



18世紀に入ると、洗濯の仕方も変化した。家庭でも時々の大洗濯をするよりも、シャルダンの絵のように、週単位、隔週ごとに小規模な洗濯をするという風習が一般化していった。この作品では中心に位置する女性が、洗濯の手順や作業を仕切り、後方で後ろ向きに描かれた若い女性に衣類の干し方などを指示していたのだろう。総じて、これらの女性の労働条件はきわめて厳しいものであり、劣悪な労働に甘んじ、僅かな賃金を得て、汚く不健康な生活環境で過ごしていた。しかし、彼女たちの労働なしには、この時代の都市の生活は機能しなかった。


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N.B.
シャルダンは薄暗い、汚れた環境で働いていた女性たちの姿を穏やかな雰囲気の内に描いている。作品画面の右側で洗濯物を干している若い女性は後ろ向きに描かれている。画家にとって作品の主人公ではない、脇役の人物を後ろ向きあるいは遠くに描く技法は、《市場から帰って》など、シャルダンの他の作品にも使われている。
この技法は19世紀末デンマークの画家ヴィルヘルム・ハマスホイが、画面に唯一人登場する女性をすべて背後から描いていることを想起させ興味深いものがある。

最近、美術館などの日本語表記が変わったようだ(ハンマースホイ→ハマスホイ)。
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水についての意識
一般市民の水についての考え方も興味深い。当時のフランスでは医師の考えでも人間の皮膚は多孔であり、ウイルス、細菌などを通過させるという考えが強かった。そのため、日常生活では顔と手だけを水できれいに洗えばそれでよいという。見える所だけを洗い、汗を布で吸い取り、発汗を防ぐという考えだ。友人でパスツール研究所にいたことがある日本人医師は、今でも根底にはこうした意識があるようだと話してくれた。

18世紀になとると、フランスでも個人的な衛生観念を深めるという考えが芽生えた。水で対処するだけでなく、下着自体を取り替える。きれいな衣服は汗を減らし、発汗や匂いを減らすことで皮膚を清潔に保つという考えを受け入れるようになっていた。ベッドやテーブル用の布がどれだけ積んであるかが、主婦の誇りであったともいわれる。労働者階級でも下着の重要性が認識されてきたが、それでも年間を通して、保有枚数が2枚程度だったとの記述に出会う。しかし、18 世紀に入るととこうした状況は絶えることなく着実に改善されていった。

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N.B.
興味深いイギリス人とフランス人との違い?
ここでこの時代におけるイギリス人とフランス人についての興味深い観察がある。フランスへのイギリス人旅行者は、フランス人は概して、きわめてきれいな衣服を身に着けていることに驚かされたが、他方あまりきれいとはいえないアパートメントに住んでいるとの記述が見いだされる。他方、イギリス人は衣服は汚れていて、およそきれいとはいえないが、家やアパートは概して掃除が行き届き、バスタブが設置されていた。この点、フランスは概して他のヨーロッパ大陸の諸国とほぼおなじのようだ。

最近では長い袋に入れてくれることが多いバケットだが、しばらく前まではそのまま買い物袋に突っ込んだり、手が触れる所だけを紙で包んで持ち歩く人々の姿をよく見かけた。日本人からすれば、ほとんどの人が驚く光景だが、フランスよりも高温多湿な国に生まれ育ったわれわれの生活感覚とは異なるのかもしれない。
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変化した衣服事情
1759年頃のある資料では、未婚の男子貴族はシャツ5枚、カフ(袖口カバー)、ハンカチーフ3枚、ソックス、ストッキングス2枚を毎週洗濯屋へ出していた。シャツはほとんど毎日変えていたが、スボン下は見えないからとの理由で月1回だったとの滑稽な話も伝わっていた。結婚後は変わり、毎日代えていた。

17世紀半ば、ジャン・ジャック・ルソーはシャルダンと同じ職人の息子として育ったが、未だ哲学者としての名声もなく、外交官の秘書として働いていた。その頃、42枚のシャツを盗まれたとして話題となったことがあった。外交官という職業柄、清潔な衣類を身につけることが要求された結果だろう。

ここで注目されるのは女性が頭を覆っているボンネットといわれる帽子のような被り物である。主として白色系の柔らかな素材で出来ており、刺繍がほどこされたものが多い。形状もさまざまで当時の女性ならば、少なくも10枚以上は持っていたようだ。髪の汚れや乱れを隠し、容貌を美しくみせる効果も期待できた。素材はモスリン(フランス語: mousseline、英語: muslin)といわれる木綿や羊毛などの梳毛糸を平織りにした薄地の織物が普通だった。 

全体に18世紀に入ると、家庭の保有する衣類の数は着実に増加している。

薄暗い仕事場で遊ぶ子供
シャルダンの作品では、床に座った子供がシャボン玉を吹いて遊んでいるが、これも新しいタイプの遊びであり、子供といっても誰もが同じように遊べたわけではなかった。母親の仕事場の傍らで遊ぶ子供にとって、シャボン玉遊びは他の子供たちは容易に手にすることのない遊びに、周囲のことなどにおかまいなく夢中だったのかもしれない。実際石鹸はシャルダンの時代でも高価だった。シャボン玉で遊んでいる子も夢中になる理由があったのだろう。



しかし、子供はつぎの当たったジャケットを着て、ぼろぼろなズボンを履いている。ジャケットは立てばおそらく膝まである大人のものだ。そうした衣服も貧困による単なる節約のためではなく、しばしば父親が着ていた衣類を捨てることなくとっておいた「お下がり」であることが多かった。

残念なことに、シャルダンは1751年で風俗画のジャンルをやめ、静物画に専念するようになった。この画家は作品数が少なく、今日に継承されているのは油彩画200点程度であり、60年を越える画業生活を考えると、年間3-4点に相当する。歴史画と異なり、作品は小品が多く、描かれた対象も少なかった。画家は自分が満足するまで目前の作品に多くの時間をかけていたと思われる。

シャルダンの静物画は富裕な収集家、貴族、王などが購入することが多く、一般のファンは銅版画を買い求めた。実際、シャルダンの作品には熱心な愛好者がいたことが知られている。画面に描かれた対象は、《赤エイ》、《死んだうさぎ》、《いちご》など、限られているのだが、画家が注いた熱意に惹かれたのだろう。

この作品《洗濯女》The Laundressは、当初Chevalier de la Roqueが所蔵していたが、所蔵者の死後、1745年に売却され、スエーデン王の跡継ぎのアドルフ・フリードリッヒの妻ルイズ・ウルリケ Louise Ulrike が入手した。彼女はフレデリック大王の妹にあたりワトー Watteau を好んだ王と同様にフランス、ロココの油彩画を好んだ。彼女はシャルダンの作品を少なくも7点は購入したといわれる。

シャルダンのこうした風俗画が、富裕な生活を過ごしていたとみられる彼女ルイズの心にいかに響いたのかは、残念ながら明らかではない。しかし、現代人の目でみても、18世紀フランス社会の底辺で日々働いていた女性たちの姿が、穏やかな光の下で描かれている作品は、コロナ禍の下で予期しなかった日々を迫られている現代の我々にとって、しばし過ぎ去った遠い時代へ思いを馳せるよすがとなるだろう。


Reference
Rosenberg Pierre (ed.) Chardin, exh.cat., Grand Palais, Oaris/Dusseldorf/London/New York, 
1999-2000
& others


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