これまで折に触れて取り上げてきたジャン・シメオン・シャルダンの作品は、筆者にとってはラ・トゥールほどの強い吸引力は持ってはいない。ラ・トゥールの作品に深く入り込むうちに、いつの間にか次の世代に入るこの画家の世界にも惹かれていった。
シャルダンの作品は、とりわけ風俗画と言われるジャンルの絵画に漂う穏やかだが、どこかに感じられる規律や厳格さに救われるものを感じていた。風俗画といわれるジャンルにともすれば感じられる放埒さ、弛緩、退廃のような雰囲気が漂っていない。なにか凛とした印象を与える画風である。
《洗濯女》との対画として描かれたとみられる本作《水を汲む女》は、当時の炊事場における日々の家事のひと駒である。中心に描かれているのは、薄暗い場所で、白いボンネットをかぶった女性が大きな銅製の給水器から瓶に水を入れるために腰をかがめている姿である。当時のパリでは、近隣の共同井戸などからこの給水器に運ばれた水がこのような形で家事に使われていた。
《給水器から水を汲む女》1733-39年頃39.7 x 31.8cm, 油彩・キャンバス、トレド美術館(アメリカ)
前回に記した女性のボンネットとブラウスの白さが際立っている。顔は、ボンネットによって隠されていて見えない。壁にはいずれ調理の材料となる肉が吊り下げられている。水を使っているので室温が低いのだろう。やや奥には、 別の召使と子供が戸口の側に描かれている。女性の足元は石畳のようであり、仕事の場所としても恵まれているとはいえない。冬などはかなり冷えて厳しかっただろう。
他方、描かれている対象の違いはあっても、差し込んでいる光の取り扱いなどを見ると、17世紀の北方絵画から多大な影響を受けていることは明らかに分かる。
光が十分には差し込まない炊事場の一角は、シャルダンが住んでいたパリの住居だったのだろう。フェルメールのような明るい光が差し込む上質な部屋を描いたものではない。しかし、そこに差し込む光の効果、それが生み出す明暗は見事に描かれている。
シャルダンの作品、とりわけ風俗画と言われるジャンルの絵画に漂う穏やかだが、どこかに感じられる規律や厳格さに救われるものを感じていた。
しかし、フェルメールに感じられるようなある種の張りつめた硬さのようなものは感じられない。シャルダンのよく知られた《食前の祈り》も18世紀前半のフランスの家庭での日常的光景を描いたものだが、見る人に穏やかな安らぎと家庭におけるしつけの原点のようなものを感じさせる。かつてはヨーロッパの多くの家庭で、grace といわれる食前・食後の祈りが行われていた。筆者も友人の家などで何度か経験したことがあった。
食前の祈り Saying Grace,Woman drawing water at the cistern ,
1740年頃49.5×39.5cm, 油彩・キャンバス, ルーヴル美術館(パリ)
「忘却」の裏側に残っていた記憶
このブログ、17世紀の絵画との出会いとその後をたどるメモのようなことから書き始めてからいつの間にか10数年、5700日を越えた。その間、今日まで取り上げてきたトピックスも多様化し、サイトを訪れてくれた出版社の編集者からは、テーマを整理するとかなりの数のエッセイや本が出来ますねといわれるまでにはなった。
しかし、ブログなるものを始めて以来、本にしようとの意図はほとんどなかった。むしろ、本には書き難いような行間の話や、人生の色々な段階で体験したり、考えたことの断片をアドホックな形でひとまずメモにしてみようとの思いの方が上回っていた。「忘却」という言葉の裏側に消されることなく残っていた切れ端を引き出すことで、記憶細胞から消却されてしまったと思った時間のある部分を復活させるような楽しみが増えてきた。この試みは想像した以上に楽しいものとなった。
記憶の糸を繰る
手始めに記し始めた17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールにしても、書き留めておきたいことは、いまだかなりあるのだが、筆者の人生の時間も限られてきたこともあり、最近ではメモしておきたい他のトピックスも増えてきた。それだけに最近ブログを訪れてくださる方は、どういう意図や脈絡でこれらの記事が書かれているか、とらえがたく当惑されている方も多いだろう。
筆者の記憶においては、こうした一見脈絡がつけがたいような記事の集積は、これまでの人生において形成された人生観や世界像の部品や潤滑油のようなものになっている。書き記すことで、糸を繰るように埋もれていた記憶が掘り起こされる。
ブログを支える柱の一本となっているジョルジュ・ド・ラ・トゥールを取り上げた時、最初は多くの知人・友人からほとんど知らない、作品も見たこともないという感想を聞いた。配偶者がフランス人である友人から、どうしてそんなことを知っているのと言われ、逆に当惑したこともあった。西洋文化の輸入で始まった日本では受け入れに伴うバイアス、研究者の偏在などもあって、同じ17世紀ヨーロッパ美術でも、たとえばフェルメールなどに過大な評価、そして関心が偏重していると筆者などは感じていた。同様なことを友人のオランダ人の美術研究者から指摘されたこともあった。文化の受容の仕方に時々違和感を覚えることもあった。しかし、ラ・トゥールについてみると、2005年には国立西洋美術館で特別展が開催されたこともあり、日本におけるこの画家の認知度はかなり上がった。
ちなみに筆者はこれまで美術史を専攻したわけではない。なんとか専門といえるのは「経済学」という美術とは遠く離れ、きわめて縁遠い領域で多くの時間を過ごしてきた。その傍ら国内外で仕事をする途上で、専門領域での研究の傍ら、美術史の講座を受講したり、友人の美術家や文学研究者などから話を聞いて、いつの間にか頭脳の片隅に考えたことがかなり集積していた。一時期職場を共にしたフランスやドイツ文学の碩学のお話に瞠目したこともあった。とりわけ、それぞれの時代に、さまざまな場で「働く人たち」や「仕事の光景」を描いた画家の作品には、格別関心を掻き立てられてきた。
コロナ禍に世界が大きく揺れ動く時にあって、これまでのせわしない人生で奪われてしまっていた時間のある部分を取り戻すことができるのは、生きていることの喜びを感じさせてくれる。この世界的な感染症という災厄がもたらした思いがけない時間の恵みをもう少し楽しんでみたい。