Lowry, Laurence Stephen (L.S. Lowry 1887-1976); Coming from the Mill, ca.1930, The L. S. Lowry Collection
L.S.ラウリー《工場から帰る》
この作品は、以前にも記したが、L.S.ラウリーの「マッチ棒人間」matchstick menが多数描かれた《産業風景》シリーズの中で、最もよく知られたものかもしれない。当初はパステルで描かれ、その後10年近く経って油彩画として制作された。制作時期は1930年代、世界的な大恐慌の最中であった。作品はその後サルフォード市美術館によって購入されたが、L.S.ラウリーは「サルフォード市がこの作品を購入してくれたことは大変嬉しい。というのは、この作品はこの地で最も特徴的な工場風景を描いたものだから」と述べている(S. Rhode, L.S.LOWRY: A LIFE, 2007, p.65)。
大きな会社と思われる建物から、多数の労働者と思われる人々が次々と出てきて、帰宅の道を急いでいる。彼らは誰もが同じように、1日の労働に疲れ果てたように無表情で前屈みに、黙々と歩いている。人々があたかも個性を奪われたように、歩いている光景は、資本主義社会が生み出した労働者という生産手段を持たない多数の人々を的確に象徴しているようだ。
背景には、黄色に点灯された窓が並ぶ巨大な骨組みが、薄暗い午後の空に立っていた。工場では、一様に頭を下げた、小さな、打ちひしがれたような、黒い人影が何百と働いていた。画家はこの光景を、何度も見るとはなしに呆然と眺めていた。
後年、L.S.ラウリーは自らが画家を志すことを決意した時として、1916年、午後4時頃、サルフォード郊外のペンドルベリー駅で列車に乗り遅れた時、プラットフォームから見たアクメ紡績会社*の建物であったと述べている。
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Acme Mill, 250 Swinton Hall Rd, Pendlebury
この建物は1906年に the Acme Spinning Co. Ltd. として建築され、イギリスで最初にランカシャー電力会社の電力で操業した紡績工場として知られている。6階建の建物で、L S Lowry’の作品‘Coming from the Mill’ (1930).のインスピレーションを生んだ工場として知られている。1969年に解体された。
当時の写真は Salford Local History Libraryに残されている。
経営者の軍隊
大恐慌時代、L.S..ラウリーは次のように話したといわれる:
本当に効率的な全体主義国家とは、政治的ボスが率いる万能の幹部と管理職の軍隊が、強制される必要のない奴隷の集団を支配する国家であろう。
L.S.ラウリー(L.S. Lowry 1887-1976)という画家は、作品、生涯の過ごし方、その他多くの点で稀有な人物であった。今日では、大変人気のある( popular)画家だが、流行に乗った当世風(fashonable)の画風ではなかった。この画家を著名にした「マッチ棒人間」 といわれる独創的な人々の描き方も、その理由のひとつに挙げられるかもしれない。この画家の画風を「範疇化」categolize することができない。他の人々が真似をしても、なかなかラウリーのようには描けないのだ。
L.S.ラウリーは、現代イギリス美術の流れにおいても、かなり特異な存在であった。彼は画家を志す心情として、産業革命の発祥の地 マンチェスターにおいて、自らをその地に置き、その展開の実態を地図上で描き出したいと述べていた。そのため、イングランド北西部を主たる活動領域とし、その地域から出ることはほとんどなかった。産業革命はアメリカでも展開したが、L.S.ラウリーという画家は、今日までほとんど知られていなかった。
工業化・資本主義化を描いた画家
画家は、イギリス北西部に生まれ育った特異なリアリズム画家として、その生涯のほとんどを過ごした。イギリスの北部と南部との経済的・文化的断裂は深く、近年ではサッチャー首相の時代に大きな問題としてクローズアップされた。L.S.ラウリーはイギリスに特有な『工業化』industrialisation, そして資本主義の展開の姿を、絵筆をもって独創的に描き出した画家であった。
「マッチ棒人間」は、イギリス北西部で展開した産業革命の過程で見られた機械化に対する個性を奪われた人間のクローンと考えられる。工業化によって生み出された労働者階級の実態については、多くの作家が書いている。しかし、絵筆をもってその状況を克明に描いた画家は少ない。L.S.ラウリーはイギリス産業革命の盛衰を、ヴィジュアルに記録した歴史家の役割を果たしたといえる。
政治的には、L.S.ラウリーは、保守党支持者であったと思われる。当時は労働者であっても保守党に投票していた。労働党が未成熟であったことも影響している。ちなみに、イギリスで最初の労働党政府が、ラムゼイ・マクドナルドの下に成立したのは、1924年のことだった。
しかし、後に労働党党首、首相を務めた ジェームズ・ハロルド・ウィルソン
James Harold Wilson, Baron Wilson of Rievaulx、(1916年 – 1995)との知己も生まれ、晩年の思想的立場は分からない。
L.S.ラウリーが、マッチ棒人間を描いた作品は、マンチェスター近郊のサルフォードにあるラウリー・ギャラリーに多く収められている。
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N.B. 参考:大恐慌までのサルフォードの変化
1888年 最初の鉄鋼がサルフォードとマンチェスターで生産され、翌年、圧延工場が開設。この地域はイギリスで最も高い煙突群がある地域のひとつとして知られるようになった。Top Place Chimney の名で有毒なガスを排出していた。
1901年 国勢調査でサルフォードはイギリスで最も死亡率の高い地域のひとつとなった。主たる原因は劣悪な住宅事情とされた。
1903年 「女性社会・政治組合」Women’s Social and Political Union(WSPU)がサルフォードに設立された。
1904年 ラウリーはマンチェスターのThos.Alfred & Son事務所の事務員に雇われる。
1909年 家庭の事情でラウリー一家は恵まれたヴィクトリア・パークから工業地域であるサルフォードのペンドルベリー、ステーション・ロードへ移住。ラウリーは、初めて 自宅から歩いて綿工場、炭鉱で働く労働者で混み合う町中や時にはクリフトン、スウィントンなどの人影少ない田舎や畑のある地域へ行くようになった。そして、サルフォードの美術学校でパートタイムで描画を習い始める。
1910年 ラウリーは前職の事故・火災保険会社を解雇され、ポウル・モール不動産会社の家賃収集人となる(1952年に退職するまで勤めた)。
サルフォードのTrafford Park(世界最初の工業団地)完成。
マンチェスターとサルフォードの人口が95万人に達した。綿工場、炭鉱、鉄鋼鋳造、エンジニアリング、鉄道、運河、ドックなどの発展が寄与した。
キング・ジョージV世の戴冠式の月、イギリスは歴史上最大のストライキを経験。125万日の損失。
1920年 大戦間にイギリスの南北格差が広がる。要因は不況が北部の工業地帯に打撃を与えた反面、南部が繁栄したため。
*炭鉱が民有化されるにつれ、政府と労働組合の対立が激しくなった。暗黒の金曜日、運輸・鉄道組合が争議中の炭鉱労組を支持するために、ストライキを要求しないと宣言。鉄道・運輸、炭鉱労組間の3者連携を終わらせた。
ラウリーは労働史におけるこの時期の暗澹とした空気を《ストライキの集まり》The Strike Meeting 1921として、スケッチとして残している。さらに《濡れた地上の炭鉱》Wet Earth Colliery, Dixon Fold 1924(鉛筆画)も現存。石炭生産は急速に減少。
1924年 最初の労働党政府、ラムゼイ・マクドナルドの下に成立。
1928—38年にかけ、ラウリーはパリのSalon d’Automne and Artistes Francaiseに作品展示。
1929年 大恐慌
サルフォードの住宅状況は劣悪のまま。950戸のうち、94は庭なし。67戸は外の水道を使う。152戸はボイラーがない。129戸はトイレット共用。
1930年 でにイギリスの失業者数は230万人に達する。サルフォードでも4人の内、1人は失業していた。
The Housing Actは、スラム問題について初めて包括的な対処を目指し、地方に全てのスラムを撤去するよう指示。
《工場から帰る》
1931 年 マンチェスターの人口は766,311のピークに達した。ある調査によると、サルフォードの一部は全国でも最悪のスラムと判定された。
財政危機の最中、総選挙が実施され、ラムゼー・マクドナルド率いる連立内閣は、公務員、教師、その他の公的な従業員の賃金切り下げを実施。
失業者の賃金切り下げに反対しての’Battle of Bexley Square’として知られるサルフォードの失業者のデモ
アメリカから発した大恐慌は、イギリス北西部の造船、炭鉱、繊維産業に大打撃を与え、失業率は50%を越えた。南部、中部のある地域では4%程度に止まっていた。
1933年 マンチェスターは市のスラムを全廃する計画に着手。15000件の家が対象となった。古い家の破壊と新たな家の建築が同時に行われた。
1936年 ラウリーはマンチェスター・アカデミーに参加。Royal Society of British Artistsの会員に選ばれた。
ジョージ・オーウエルは彼の『ウイガン波止場への道』執筆のための調査でマンチェスターを訪れた。彼は3d.しか手持ちがなかったので、小切手を現金化しようとしたが、断られた。彼はブートル街の警察で保証をしてくれる弁護士を紹介してくれるよう依頼したが、断られた。オーウエルは知らない町で一文なしの状態となった。『恐ろしく寒かった。街路は煤煙でひどい黒色になって凍りついていた』と回顧している。
Clark and Wagner, Notes に依拠
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Reference
T.J.Clark and Anne M. Wagner, LOWRY AND THE PAINTING OF MODERN LIFE, Tate Publishing,2013