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人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

回想のアメリカ:アメリカの深層を訪ねて(2) 奴隷制〜かくも長き廃絶への道

2023年04月02日 | 回想のアメリカ


Erick Williams, CAPITALISM AND SLAVERY, THIRD EDITION, Cover

1965年12月合衆国憲法修正第13条の批准によって、アメリカの奴隷制度は公式に廃止された。


資本主義成立史論への衝撃
ヨーロッパに始まった資本主義の成立史論によれば、資本主義の萌芽は、プロテスタントの信仰に支えられて、勤勉に働いた人々によって、その国に固有な農村や産業・技術の環境から生まれ育ったと考えられてきた。実際、筆者が学んだ時代においては、西洋的近代化を理想としていた日本の資本主義論に「奴隷制」「奴隷貿易」などの概念は、全く登場していなかった。

その後、留学生として渡米し、筆者が衝撃を受けたのは、本ブログにも記した奴隷制の遺物でもある有色人種への偏見、市民の無関心などに加え、奴隷貿易の視点など、前回も記したカリブ海出身の同級生などからの新たな視角の提示であった。とりわけ、労働に関わる社会経済史セミナーの議論で、彼が提示したのは、エリック・ウイリアムズ Eric Williams が提示した『資本主義と奴隷制』Capitalism and Slavery(Andre Deutsch,1944)なる研究の内容だった。この著書がイギリスで出版されたのは、1964年、ケネディ大統領暗殺の前年だった。日本では専門研究者などを除いてはほとんど知られていないが、近年新たな脚光を浴びている。

* 例えば:

ウイリアムズの著作は、イギリス産業革命を西インド(カリブ)諸島海域との関連から見るという画期的な研究であった。奴隷貿易がイギリス産業革命を支えたという衝撃的な内容で、セミナーでは議論は沈黙してしまって終わり、その後議論に取り上げられることはなかった。産業革命がアフリカ人奴隷の「血と汗」によって支えられたという論旨は、当時のアメリカ人学生にとっては、初めて聞いたことでもあり、なかなか受け入れ難い内容だった。しかし、10名に満たないセミナーで毎週、外国人学生として隣りに座っていたTと私の間では、その後しばしばこのテーマが話題となった。

ウイリアムズが『資本主義と奴隷制』で提示した主要な論点は、今日では「ウイリアムズ・テーゼ」として知られるようになった。その中で最も著名な重要点は「大西洋奴隷貿易と西インド諸島での奴隷制から得られた利潤は、イギリス産業革命の経済的基盤になった」というテーマである。この主張は、産業革命はイギリス内部から生まれたというそれまでの伝統的主張にとって大きな挑戦となった。18世紀のほとんどを通じて、新大陸での奴隷制と奴隷貿易で生まれた富は、イギリス産業革命の初期を支えた重要な資金源とされた。

こうした主張は、必然的に16世紀から19世紀にかけて、アフリカから強制的に貿易対象として連れ出され、輸送されたアフリカ人奴隷の数の推定に及び、少なくとも1250万人以上が新大陸などへ奴隷船で搬送されたとみられている。

18世紀の奴隷船については
Slave Voyages のタイトルで、多大学共同による極めて充実した専門的な研究成果がIT上で公開されている。3Dの奴隷船slave vesselsも掲載されている。

さらに、奴隷貿易の研究は、アフリカ、なかでも大西洋沿岸部とヨーロッパや新大陸の間で、奴隷とされた黒人と、アフリカが求めた繊維製品など必需品との相互交易の側面にまで進み、「大西洋奴隷貿易」という経済活動の次元の解明へと拡大していった。

現実の歴史に戻ると、アメリカの独立でイギリスが新大陸で、帝国主義的支配を続ける関係は切断された。これによって、イギリスの資本家たちは急速に自由貿易へと転換した。そして、奇妙に聞こえるが、西インド諸島での奴隷制維持のため重商主義的手段で奴隷制を維持させる「独占」を批判するようになった。資本家が人間性や人間愛ではなく、貪欲から奴隷制反対へと転換したことになる。

アメリカ(独立)革命は、一方でアメリカの奴隷制に厳しい打撃を与えた。州が次々と奴隷貿易を廃止に動き、1790年代にはアメリカ(北部州)は奴隷取引を廃止した。北部諸州では奴隷制自体が廃止され、世界史上最初の廃止国となった。

自由となった黒人たちの社会が生まれ、彼ら自身が反奴隷制の政治リーダーになる動きが生まれた。「北部」the Northの形成であった。他方、「南部」the Southのプランテーション諸州も独立革命で揺り動かされた。

アメリカ独立革命( American Revolution): 18世紀後半の米国における13の英領植民地の反英国闘争から、戦争を経て統一国家を形成するまでの一連の動き:特に独立戦争(1775-83)を指すことがある。

奴隷制や奴隷貿易についての研究は、筆者の専門領域ではなかったが、カリブ海などへの関心は途絶えることがなく、OPEC, IBAなどに代表される開発途上国の天然資源輸出機構の成立と活動の実証研究などにしばらく引き寄せられた。

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石油産出国が自らの利益を擁護するため1960年に設立したOPEC(Organization of the Petroleum Exporting Countries)
石油輸出国機構は、世界に大きな衝撃を与えることになった。1970年代に2度発生したオイル・ショックは、世界経済に大きな衝撃をもたらした。石油にとどまらず、天然資源産出国の間にはOPECに触発された同様な機構が生まれ、筆者も調査団などで、OPECやIBAを調査のため訪れることになったInternational Bauxite Association:IBBA, 国際ボーキサイト連合。1974年結成。1994年解散。事務局はジャマイカのキングストンにあった)。
ジャマイカ関連記事(本ブログ内):
『ジャマイカ 楽園の腐敗』
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奴隷解放への紆余曲折 
こうした奴隷の解放に向かっての動きは、まもなく阻止されてしまう。一部はアメリカ革命それ自体によるものだった。イギリス、アメリカでの急速な経済発展によって、砂糖、ココア、そして何よりも木綿という奴隷労働が生み出す生産物への需要が拡大した。その結果、皮肉なことにアフリカ奴隷への需要が増加したのだ。

その結果、アメリカ革命から数10年して、北米、ハイチから人類史上初めての奴隷制を全廃する動きが生まれた。同時に反面で、ブラジル、キューバ、プエルトリコ、あるいはアメリカ南部に’’第二の奴隷制”ともいうべき奴隷制の大きな再現があった。

前回記した大西洋上で奴隷貿易を絶滅しようとの動きは、こうした矛盾した状況の下で生まれた。奴隷貿易の絶滅を企図する動きに抗して、なんとしてもそれを続ける動きが執拗に存続した。

奴隷貿易絶滅の動き
1794年と1800年に、アメリカ議会はアメリカの乗組員と船舶に、奴隷貿易に携わることは犯罪であることを明らかにした。1808年にはアメリカは全ての奴隷輸入を禁止した。1818年と1820年にはアメリカは全ての奴隷輸入を死刑に関わる海賊行為とした。結果として、違反は稀となったが、それでも奴隷とされたアフリカ人がアメリカに密輸されることは絶えなかった。

密貿易を支えるため、当時のアメリカの造船業は羨望の的だった。例えば、バルティモア クリッパーズという名で知られた帆船は奴隷搬送に適しており、大西洋の奴隷貿易を独占するまでになった。そしてそこにはいつも違法な航海をするアメリカ人の船長、乗務員がいた。彼らが航海するアメリカ、アフリカ、そしてブラジル、カリビアンのプランテーションの三角形を構成する一部の海路は合法だった。

こうした中、フランスは1830年代には本気で奴隷貿易を違法とし、取り締まりを始めた。数年後にはポルトガルはイギリスのように奴隷貿易の廃止に乗り出した。

このように、奴隷貿易の非人道性と非合法性が認識されたにも関わらず、それはなかなか根絶できなかった。イギリスが関わる協定に署名することを忌避するアメリカは、国家的利害と面目から奴隷貿易廃止の協定に署名することに不本意だった。

18世紀のほとんどを通じて新大陸での奴隷制と奴隷貿易で生まれた富は、イギリス産業革命の初期を支えた重要な資金源だった。1850年代以前では、ほとんどの不合理な奴隷貿易に関わる船舶はスペイン、ポルトガル、ブラジル国旗を掲げていた。

奴隷船の所有者の大半は拿捕されても処罰されなかったと言われる。一つの側面として、キューバとブラジル向けの奴隷貿易は繁盛していた。しかし、アメリカ行きは次第に困難になっていた。

リンカーン大統領の決断
かくして、全てが変わったのは、1861年に共和党の大統領が誕生し、上下院双方も掌握した時だった。リンカーン大統領は政権に着くやすぐにイギリスと奴隷貿易の禁止協定を締結、1862年に上院は直ちに承認した。これと同様に重要だったのは、奴隷貿易に携わった者への厳格な処刑だった。とくにニューヨークに重点が置かれた。最も注目を集めたのは、前回記した10年以上奴隷貿易に従事した商人ゴードンの処刑だった。リンカーンは強い意思であらゆる嘆願を否定し、刑の実施に加担した。こうした中、ポルトガルの会社は解散し、アメリカの奴隷貿易介入は幕を下ろした。

大西洋奴隷貿易が姿を消すのはアメリカの1865年の奴隷解放、キューバで1886年、ブラジルで1888年に実現した奴隷制度廃止によってであった。

しかし、19世紀後半まで続いた黒人奴隷貿易は、1807年にイギリスが奴隷貿易を禁止し、さらに1833年に奴隷制度を廃止したからといって、世界的な奴隷貿易や奴隷制度が終わったわけではなかった。イギリスは人道的立場を理由に他国の黒人奴隷貿易をも取り締まったが、 キューバ]と ブラジルの砂糖プランテーション、さらにアメリカ合衆国南部の綿花プランテーション向けの黒人奴隷供給は19世紀後半まで続き、それらは密貿易として行われたので、18世紀の奴隷貿易よりも悲惨な状態がとなった。大西洋奴隷貿易が姿を消すのはアメリカの1865年の奴隷解放、キューバで1886年、ブラジルで1888年に実現した奴隷制度廃止によってであった。
 
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今も続く闘い
アメリカの奴隷制度は、1865年12月に廃止されるまで約250年間存続した。その後今日まで150年を超える年月が経過した。しかし、その負の遺産は十分撤去されることなく今に至るまで消滅していない。1940年代から1960年代にかけて、広汎な公民権運動が展開し、多くの差別的法律や慣行が撤廃された。しかし、地域によっては白人優越主義が根強く残り、多くのアフリカ系アメリカ人にとっては、平等、公正、公平を求める闘いは今も続いている。

資本主義と奴隷制の関係に最近関心が再燃しているのは、その事実を直視し、根源を再認識する必要に人々が気づき始めているからだろう。


 References:
John Harris, The Last Slave Ship:New York and the End of the Middle Passage, Yale University Press,2021.
Erick Williams, Capitalism and Slavery, Third Edition, (1944)1994、2021,
Chapel Hill, University of North Carolina Press.

終わり

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