『環境問題のウソ』
池田清彦、2006、『環境問題のウソ』、ちくまプリマー新書
「正義」の顔をした環境主義者のうそを暴く。著者は構造主義生物学者だが、生物学全般の著作も多い。本書では、環境問題に関して生物学を基盤にして世間の常識を覆す。
まず、地球温暖化問題。温暖化ガスの二酸化炭素の排出をめぐって京都議定書をめぐり、最大の排出国家アメリカは批准を否定し、日本以外の国々は、批准をして二酸化炭素排出権の売買システムと経済発展についてのシステムを作り出した。しかし、果たして、二酸化炭素が温暖化の究極因であるのか。著者は、太陽活動と地球上の温度変化について相関が見られるとの資料を提示し、温暖化現象が人間の産業活動によるものとは限らずもっとマクロな地球科学的なレベルな変動によるものであり、地球温暖化問題が本質的な問題を離れて、利権化していると指摘する。
つぎに、ダイオキシン問題では、半致死量をキーワードに、体内に摂取される量と環境に存在する量、そして、半致死量がまったく異なった単位であることを指摘し、いわゆる「ダイオキシン法」が、生存にかかわらない意味のない環境汚染問題の提起であることを指摘し、税金の濫費と利権の追求であるという。
外来種の問題については、生物種という概念自体の最近の疑義をはさみながら、他の種と孤立し遺伝子汚染という概念自体が生物進化の概念と矛盾することを根拠に、外来種の排斥のための「特定外来生物被害防止法」の矛盾を糾弾する。すなわち、個体が有性生殖することによって遺伝子交換して種の多様性を維持していることが環境への適応を生むことである。生物界において新たな種が登場することは他の種を排斥することではなく、むしろ、種の多様性や遺伝的多様性を保障することを意味するのであって、いたずらに、外来種を排斥することの生物学的な無意味さを指摘する。また、著者も本書で繰り返し述べることであるが、こうした多様性を排斥する思想がたとえば、人間界の思想界の多様性を排斥したり、民族あるいは文化的多様性を排斥する差別観を生み出す温床となるのではないだろうか。
最後に、環境省をはじめとする政府が自然保護の思想が、特定種の保護に向かい、全般的な環境保全に向かわないことを糾弾する。たとえば、東京都西郊の高尾山をつらぬく「圏央道」の工事において、地域に固有の生物種を保護し採集禁止にするも、開発自体は継続するという矛盾である。つまり、生物種は環境に依存して生息可能になるのであって個体数管理では保護できないのである。環境そのものをどのように維持するかが肝要なのである。
ただし、著者は、環境保護原理主義者ではない。人間が世界に存在する以上、そして、人間が環境に依存して生活する以上、人間の生存にかかわる問題をおいて環境保護を求めるものではない。むしろ、メリットとデメリットを人間と環境の共存(もちろん、これがもっとも困難なのであるが)を前提にして環境問題を再考しようというのが、著者のスタンスである。ややもすると原理主義的な方向に向かうさまざまな問題について、そうした方向ではなく、再考しようという著者の考えに強く賛同するものである。
本書の書評で目に付いたものをいくつかあげておく。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~masudako/reading/ikeda2006.html
「正義」の顔をした環境主義者のうそを暴く。著者は構造主義生物学者だが、生物学全般の著作も多い。本書では、環境問題に関して生物学を基盤にして世間の常識を覆す。
まず、地球温暖化問題。温暖化ガスの二酸化炭素の排出をめぐって京都議定書をめぐり、最大の排出国家アメリカは批准を否定し、日本以外の国々は、批准をして二酸化炭素排出権の売買システムと経済発展についてのシステムを作り出した。しかし、果たして、二酸化炭素が温暖化の究極因であるのか。著者は、太陽活動と地球上の温度変化について相関が見られるとの資料を提示し、温暖化現象が人間の産業活動によるものとは限らずもっとマクロな地球科学的なレベルな変動によるものであり、地球温暖化問題が本質的な問題を離れて、利権化していると指摘する。
つぎに、ダイオキシン問題では、半致死量をキーワードに、体内に摂取される量と環境に存在する量、そして、半致死量がまったく異なった単位であることを指摘し、いわゆる「ダイオキシン法」が、生存にかかわらない意味のない環境汚染問題の提起であることを指摘し、税金の濫費と利権の追求であるという。
外来種の問題については、生物種という概念自体の最近の疑義をはさみながら、他の種と孤立し遺伝子汚染という概念自体が生物進化の概念と矛盾することを根拠に、外来種の排斥のための「特定外来生物被害防止法」の矛盾を糾弾する。すなわち、個体が有性生殖することによって遺伝子交換して種の多様性を維持していることが環境への適応を生むことである。生物界において新たな種が登場することは他の種を排斥することではなく、むしろ、種の多様性や遺伝的多様性を保障することを意味するのであって、いたずらに、外来種を排斥することの生物学的な無意味さを指摘する。また、著者も本書で繰り返し述べることであるが、こうした多様性を排斥する思想がたとえば、人間界の思想界の多様性を排斥したり、民族あるいは文化的多様性を排斥する差別観を生み出す温床となるのではないだろうか。
最後に、環境省をはじめとする政府が自然保護の思想が、特定種の保護に向かい、全般的な環境保全に向かわないことを糾弾する。たとえば、東京都西郊の高尾山をつらぬく「圏央道」の工事において、地域に固有の生物種を保護し採集禁止にするも、開発自体は継続するという矛盾である。つまり、生物種は環境に依存して生息可能になるのであって個体数管理では保護できないのである。環境そのものをどのように維持するかが肝要なのである。
ただし、著者は、環境保護原理主義者ではない。人間が世界に存在する以上、そして、人間が環境に依存して生活する以上、人間の生存にかかわる問題をおいて環境保護を求めるものではない。むしろ、メリットとデメリットを人間と環境の共存(もちろん、これがもっとも困難なのであるが)を前提にして環境問題を再考しようというのが、著者のスタンスである。ややもすると原理主義的な方向に向かうさまざまな問題について、そうした方向ではなく、再考しようという著者の考えに強く賛同するものである。
本書の書評で目に付いたものをいくつかあげておく。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~masudako/reading/ikeda2006.html
環境問題のウソ筑摩書房このアイテムの詳細を見る |