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2014年09月22日 | 雑記帳
 先週花巻市で行われた国語研修会の件で、主催する照井先生と連絡を取り合っていたときに、問いかけられたことがあった。
 自分が書いたメールの中にあったこの一文を指摘されたのだ。

 協同学習の可能性は否定できないものがあります

 先月ようやくまとめた拙い冊子の特に校内報の部分に、ペア・グループ学習やファシリテ―ションに関する文章も多かったので、まあなんとなくそんな表現をしてしまった。
 言ってみれば、子どもが協同でする学びという大雑把な捉え方である。
 しかし、読み手にすれば、非常に曖昧に見える使い方、言い方なのかもしれない。

 「協同学習」は学習の形態や手法を表す用語として、一般的になっているし、さらにそれが複数あるという様相なので、○○の立場と明確にしなければ、考察や議論はできなくなっている。

 まず、整理をすると、協同学習に似た名称として次の三つが挙げられる。

 共同学習  協働学習  協調学習

 違いをきちんと言いきるほど勉強していない。

 さらに「学び合い」という言葉を標榜する団体や書名なども多い。

 学びの共同体(佐藤)
 学び合う学び(石井)
 『学び合い』(西川)
 日本協同教育学会(杉江)


 共通の活動をしている所もあるようだ。違いは少しわかるにしても詳しく語れるほどではない。
 調べても上の「○○学習」の定義は様々であり、一様に区分することもなかなか困難である。

 そこで割り切ってざっくりと括ってしまえば、「協同学習」とは小集団を活用した学習方法であり、構成員相互で作り上げる学びを主眼とすることと言っていいだろう。
 しかし単なる形態のみを指すものではないことは明らかだ。
 それよりは、志向性の問題が大きいのではないか。つまり一面的ではなく多面的、正答主義ではなく修正主義、結果重視ではなく過程重視…といったようなことだ。

 で、自分がどうして「可能性」と書いたか。
 これは端的にいえば、一斉指導の限界ということが一つ頭にある。
 また、協同、協働的な学びの体験がもたらす自立や社会性伸長への期待を持っているということだ。

 残念ながら、自分にはそういう教育を受けてきた感覚が非常に乏しい。
 それゆえの限界を感じていることもある。
 ミーハーを自称しているし、様々な研修も受けたりしたが、根本的な姿勢を変えきれない自分を見つけて、もどかしさを覚えることがある。

 大胆にそういう実践を取り上げるタイミングを自ら逸したので、率先はできないが、後押し程度なら手を添えたい気持ちがある…そんな心持ちでの「否定できない」という表現がでた、ということになろうか。


 あまり意味のない文章になったが,これ以上の奥は見えない。
 この限界も、自分が受けた教育の欠点とは言わないが、「学びの場」がどんなふうに作られてきたか、またどう求めてきたかに大きく関わりを持つことは確かだ。