衝撃的な文章に出会った。
そういえば民俗学者の柳田国男も「私」への違和感を表明していた。彼によると、「知らないわ」「安いわ」などの「わ」はもともと一人称を意味していたらしい。
愛読連載「とかなんとか言語学」で、橋秀実はこう書いている。
今回が最終回。「私」を取り上げて、いつもながらの論を展開させている。
つまり「私」という主語に対するイチャモンということになる。
各資料を紐解きながら、こう切り出す。
そもそも日本語は述語だけで成立する言語らしい。「主語は述語の中に含まれたものとして表現されてゐる」(時枝誠記著『日本文法 口語篇』)そうで、別に主語を省略しているわけでなく、述語だけですでに表現済みなのだ。
つまり、述語の中に主語が含意されるのが特徴だ、と言いたいわけで、それはなんとなく納得できた。
しかしそこからの発展?で、冒頭の引用した文章を読んだときは、ええっと思ってしまった。
その論だと、「わ」という終助詞(広辞苑では女性語とされ、軽い主張・決意・詠嘆を表す、とされている)は、「我・吾」を表す「わ」から転成されてきたというのだろうか。
つまり、「知らないわ」は「知らない我」である。なるほど。
「安いわ」は「安い我」…これは変か。いや「我・吾」は二人称の場合もあるので、そこから転化して「おまえは安い、それは安い」ということか。無理がある?それとも「安いと我は思った」ことか。
では、他の終助詞はどうか。
「知らないよ」の「よ」、ああこれは「余」である。これにも「われ。おのれ」という意味があるではないか。
「わ」とほとんど同じだろう。
「知らないよ」は、「余は知らない」ということ。
「ね」はどうか。これは無理か。
「根」はどうだ。「心の底」という意味がある。しかし人称ではない。
「知らない根」とすれば、「私は心の底から知らない」となるか。
まさにこじつけ。
では「ぜ」はどうだ。
「ぜ」は「是」しかないじゃないか。
「知らない是」…「私は知らないということをよしとしている」状態である。
「知らないわ」からずいぶんと逸れてきたみたいだ。
結局、柳田国男理論?に沿えば、主語を省略する場合は終助詞「わ」を使えば(ひょっとしたら「よ」も)、主語がなくとも自分が主体であることは表現しているとなる。
ああ、少し妄想が過ぎました。
終わるわ。
ごめんよ。
そういえば民俗学者の柳田国男も「私」への違和感を表明していた。彼によると、「知らないわ」「安いわ」などの「わ」はもともと一人称を意味していたらしい。
愛読連載「とかなんとか言語学」で、橋秀実はこう書いている。
今回が最終回。「私」を取り上げて、いつもながらの論を展開させている。
つまり「私」という主語に対するイチャモンということになる。
各資料を紐解きながら、こう切り出す。
そもそも日本語は述語だけで成立する言語らしい。「主語は述語の中に含まれたものとして表現されてゐる」(時枝誠記著『日本文法 口語篇』)そうで、別に主語を省略しているわけでなく、述語だけですでに表現済みなのだ。
つまり、述語の中に主語が含意されるのが特徴だ、と言いたいわけで、それはなんとなく納得できた。
しかしそこからの発展?で、冒頭の引用した文章を読んだときは、ええっと思ってしまった。
その論だと、「わ」という終助詞(広辞苑では女性語とされ、軽い主張・決意・詠嘆を表す、とされている)は、「我・吾」を表す「わ」から転成されてきたというのだろうか。
つまり、「知らないわ」は「知らない我」である。なるほど。
「安いわ」は「安い我」…これは変か。いや「我・吾」は二人称の場合もあるので、そこから転化して「おまえは安い、それは安い」ということか。無理がある?それとも「安いと我は思った」ことか。
では、他の終助詞はどうか。
「知らないよ」の「よ」、ああこれは「余」である。これにも「われ。おのれ」という意味があるではないか。
「わ」とほとんど同じだろう。
「知らないよ」は、「余は知らない」ということ。
「ね」はどうか。これは無理か。
「根」はどうだ。「心の底」という意味がある。しかし人称ではない。
「知らない根」とすれば、「私は心の底から知らない」となるか。
まさにこじつけ。
では「ぜ」はどうだ。
「ぜ」は「是」しかないじゃないか。
「知らない是」…「私は知らないということをよしとしている」状態である。
「知らないわ」からずいぶんと逸れてきたみたいだ。
結局、柳田国男理論?に沿えば、主語を省略する場合は終助詞「わ」を使えば(ひょっとしたら「よ」も)、主語がなくとも自分が主体であることは表現しているとなる。
ああ、少し妄想が過ぎました。
終わるわ。
ごめんよ。