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だまされたと思って…だまされたのは

2014年09月18日 | 雑記帳
 外部に出す原稿をまとめる必要があって、何気なく数年前の教育誌をめくってみた。目的とは違うページだが、奈良正裕氏(上智大学教授)の連載に目がいってしまった。奈良氏の話は、ずいぶん昔になるが都会のある付属小で聴いたことがある。「カミキュラム」という言葉で、総合の在り方などを批判されていた。


 その方が「もし子どもの興味や生活実感から教材を選べなかった時は」と断ったうえでこんなふうに書いている。「深まりを確実に実現できる活動や教材を教師の側で選りすぐり、ストレートに子どもの前にドンと提示すればいい」。そして安心させるためにこう告げるという…「だまされたと思って、先生に着いてこい」。


 そうだよなと頷きつつ、ある意味ではとても難しい注文と思った。氏は自らの中学3年の美術の授業における教師の言葉を例に引き、その素晴らしい体験の重要性を訴えている。しかし「だまされたと思って」と言えるほどの教科の専門性、授業づくりの技は、容易には身につかないだろう。まして小学校であれば。


 氏はこう書く。「中学が直面する問題のかなりの部分は、小学校の教科指導に遠因を持っている」。遠因と言われればそうかもしれないとは思う。しかし「だまされない」「思いがけずいいことがあった」授業をつくるための準備は、心がけだけではできない。教科の本質を知るための時間、遊び心を持つ余裕も必須だろう。


 仕組みづくりや時間保障をせずに、その必要性を訴えるのは絵に描いた餅である。今、外部からの様々な要請、例えば多様な視点の加味といった形で授業づくりに制限が重ねられる状況がある。「だまされたと思って…」の繰り返しで、結局「だまされた」のは教師ではないか。「改革」の現状を揺さぶる提言が欲しい。