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他者の行為によって生まれるじぶん

2014年11月01日 | 読書
 「2014読了」115冊目 ★★★

 『じぶん・この不思議な存在』(鷲田清一 講談現代新書)


 半分も理解できているだろうかと不安になりながらも,自分は案外こういう哲学的な言い回しが好きなんだなということを自覚した。

 「自分探し」というような言葉が流行って?から,もうずいぶんと時間が経つ。しかしその言葉を使わなくとも,自己の存在理由を求める姿はいつの時代も不変にある。
 若ければもちろん,年老いてもなお,ふっとよぎる存在への疑問のようなものを完全に消し去っている人は多くはないだろう。
 それゆえ,こうした類いの本に手が伸びるというべきか。

 この本の一つの結論,というより方向はこの一節だと思った。

 わたしは「なに」であるかと問うべきなのではなくて,むしろ,わたしは「だれ」か,つまりだれにとっての特定の他者でありえているかというふうに,問うべきなのだと。なにがリアルなシナリオであるかは,他者とのかかわりのなかでしか見えてこない。


 「他者とのかかわり」で言えば,この著を人間ドック診察の合間合間に開いていたのだが,この一節には,思わずニヤリとし,考えさせられてしまった。

 すべてをそつなく敏速にこなす看護婦さんの世話を受けるのと,注射を打ち損なったり,体温をはかるのを忘れたりするドジな看護婦さんの世話を受けるのでは,後者のほうが幸運なこともあるのである。

 乱暴な言い回しかもしれない。
 しかし,その看護婦さんの行為,いわば過ちや不注意に対する自分の不安や怒りなどがあることが「じぶんを他者にとって意味あるもの」にさせるのだと言う。
 意味ある存在としてのじぶんは,他者の行為によってしか生まれてこないと言い方には,はっとさせられた。

 またそれは,見方を変えれば「じぶんの重さ」を払うきっかけにはなるかもしれない。
 例えば,自殺に誘われる思考の多くは,じぶんの重さに耐えきれなくなってしまうのではないか。そう考えると,著者がこの著で繰り返し語っていることは,悩める者のいい処方箋ともいえる。


 「じぶんを複数にすること」と語っていることは,最近,平野啓一郎のいっている「分人主義」と共通している面がある。
 また,ピカソが自分の作品を贋作と判断したエピソードや,冒頭に語られる女子学生のテスト答案に隠された自他関係のパターンなど,興味深い箇所が多くあった。
 96年初版,もう三十数刷になっているのも頷ける,なかなかの新書だった。