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確かなものを見抜き,愛でていこう

2014年11月28日 | 雑記帳
 某検定協会の情報誌を何気なく見ていたら、「グローバル社会を生きるために 何を学び、何を考えるべきか」という座談会があり、読み入ってしまった。

 鼎談であり、メンバーは大西泰斗氏(東洋学園大教授)鳥飼玖美子氏(立教大教授)そして成毛眞氏(HONZ代表)である。

 英語教育に関しての専門家二人と、稀代のビジネスマンという組み合わせだが、某協会であるから、なんとなく「母語重視」という結論の予想はついた。

 ただそこに収束する過程での話は、さすがにオーソリティとしての識見があふれており、興味深かった。


 英語教育の内容の改革を強く提言する大西氏。

 8年ないし10年を費やして現状の能力というのは、費用対効果を考えれば大きな疑問が生じます。


 かつて小学校への英語教育導入に強く異を唱えた鳥飼氏。

 今は英語が特殊な位置に上り詰めてしまっていて、日本人は英語に対して冷静でいられない。


 外資系企業に勤めた経験から、英語使用の現状を鋭く突く成毛氏。

 その知識なり専門能力を持つ人間でなければ、話す相手の外国人にとっては意味がないのです。


 こうした言辞は、以前からもあった気がするが、改めて私たち日本人が英語を学ぶ意味や意義を考えざるをえない。

 加えて語られる、母語のコミュニケーションの大切さは言うまでもない。そして、私たち自身が母語の豊かさに本当は気づいていないのではないか、と思わされる例も紹介されている。

 「区別」「分別」「峻別」を使いわける場面やニュアンスの違い、魚を「捌く」という語に込められる「分ける」という感覚など…。


 大西氏が言うように、結局のところグローバル化は「平板化・均質化」であり、見方によってはつまらない世界観である。
 その中で生きていくためには、他との違いに目をつけていくことこそ重要になる。

 それも個の違いばかりが強調されるが、個を支える家庭や地域や国の持つ独自性こそが初めにあることを忘れては何も育たないだろう。

 流行を追うことでなく、不易の部分にあるもの。
 成毛氏が言うところの「社会の変化に左右されない力」に通ずる確かなものを見抜き、家庭で、地域で、国家で見つめ、愛でる必要を強く感じた。