すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「いのち」を喜ばす「食」がある

2014年11月26日 | 読書
 「2014読了」126冊目 ★★★

 『食といのち』(辰巳芳子  文春文庫)


 四人の識者との対談が内容であるが、巻頭に写真ページとレシピが載っている。
 その冒頭の文章に、少しどきっとした。

 いのちのしずまる方は、氷を欲しがりなさるときく。
 (略)逝く方への美味は、言葉の無力を補う。



 この文庫に収められている対談の話は、つまるところ、この文章の精神に収斂されていく内容にほかならない。
 つまり、「生」とは何か、「食」とは何か。

 生物学者、看護師、小児科医、そして倫理学者、どの方との対談も深く、広く、そして乱れている現実への問題提起にあふれている。

 「動的平衡」で著名な福岡伸一教授との対談は、特に得心がいくものだった。
 食べることほど、身体の「動的回転」を現しているものはないという。その意味で言えば、何を、どう食べるかという「質」の問題は、自分の「生」そのものであるとも言える。
 もっと単純に言えば、生はカロリーで計算できるものではないということだ。

 私たちは、口から入れているものの正体、歴史にもっと気を配る必要があるだろう。
 いわゆるファストフードに対するスローフードの考え方は、流行り言葉ではなく、生きるための本質を提起していることを思い起こしたい。

 福岡教授の言葉で、心したいものがあった。

「観」の一字は「観る」という意味で、ものごとをどう観るかですよね。
 で、その認識はどこから来るのかというと、たぶん「知る」より以前に「感じる」ということが先にある、と私は思います。



 これは、教育現場にとっても、重い言葉だと思う。
 出発点に「気づき」をおくという発想は、子どもを育てていくうえで、かなり優先度が高いということについて考えさせられる。


 川嶋みどりという著名な看護師の方との対談で語られた著者の言葉は、案外わかっているようで、医療の現場では実行されにくいものだなということがわかった。

 患者さんが召し上がるのは栄養じゃないんですよね。ものを食べるということは、人間が人間らしくあるための根源的な営みですから。


 そして倫理学者竹内修氏が、引用したこの著の冒頭の文章を、こう価値づけていることは、まさに「食といのち」の結論と言ってもよいことだ。

 この“よい食べもの”によって、“いのちの肯定”ができるからです。
 “いのちの確認”といってもいい。



 先月、路上の直売所で買ったササゲの美味しさには素直に感動した。
 たくさんの「いのち」、それは自分であり、生産者であり、ササゲそのものであり、それらが喜んだ出来事だったと思う。

 そういうことをきちんと表現していけば、もっともっと喜ぶ「いのち」があるはずだ。