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心に決めたことに蓋をして生きる

2014年11月05日 | 読書
 「2014読了」119冊目 ★★

 『一道を行く ~坂村真民の世界』(致知出版社)


 生誕100周年記念として平成21年に発刊されたものだ。
 月刊誌「致知」に、それまで載せられたインタビュー、同志や信奉者による対談、小伝記、そして自選詩集に対して森信三先生が寄せた序文が収録されている。

 何冊か詩や随想などが収められた著を持ってはいるが、真民さんの一生をトータルに追った記録は初めて見たような気がする。当然ここでも家族の深い慈愛が満ちた姿が確かめられた。

 森信三先生の書かれた序には、真民さんの評価が次のように記されている。

 坂村氏が中勘助、山村暮鳥、八木重吉というような、いわゆる「国民詩人」の流れに汲みつつ、しかも本質的には、それらの詩人の何れよりも偉大である


 真民さんが、いわゆる現代詩の詩人たちと一線を画していることは誰の目にも明らかであり、こうした評に接するとき、いったい「詩とは何か」と考えざるを得なくなってくる。

 真民さんの詩を考えるうえで、間違いなくキーワードになることばの一つに「念」があり、そのことを抜きに考えることはできないだろう。収められているインタビューのタイトルも「念に生きる」である。

 真民さんの使う「念」は、ふさわしい意味として「深く望むこと・深く思うこと(広辞苑③)」が挙げられるだろう。
 それを具体的に実践することが「念を生きる」ということである。

 インタビューのなかの言葉から拾ってみる。

 僕はいまも毎日零時零分に起きています。必ず長短針が重なる時に、私の体は目覚める。

 一回も休まないというのが、私の一つの生き方ですね。

 人間は一本の道を見つけて、それに向かって生き、それに向かって死ぬのだ



 「求道者」としか呼びようのない実践。

 それが詩を書き続ける原動力であろうし、対象が明確になっているからこそ、言葉に力が宿り、それが他の詩人たちとの大きな隔たりと思う。
 従って,真民さんの詩の本質は、次の言葉にある。

 僕は詩人になろうと思って詩を書いているんじゃないんです。(略)底辺の世界に住んでいる人たちのために詩を書く。偉くなろうと一つも思わんですよ。


 「今」という字はもともと「蓋」を表していた。

 こうと「心」に決めたことに、きつく蓋をするかのごとく、生き続ける姿を「念」と呼ぶのだろう。