すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

饒舌さは,影を濃くするためだったか

2014年11月25日 | 読書
 「2014読了」125冊目 ★★★

 『影法師』(百田尚樹 講談社文庫)


 連休中に読む文庫本を、と思って馴染みの書店で手に取った。
 作者の文庫はたいてい読んでいるが、「時代物」だったのでちょっと躊躇っていた一冊だった。

 しかし読み始めると、そこはさすがの百田尚樹である。
 ぐいぐいと物語の中にひっぱりこまれてしまった。


 時代物は「蜩ノ記」以来だと思うが、比較するとずいぶん違うなと感じることがあった。
 こちらが「饒舌」であると感じたのだ。

 説明的とはいわないが、人物の心情なり、動作なりがより詳しく書き込まれている気がした。質がどうのこうのは評価できないが、これは作者のスタイルなのだろう。
 仮にこちらも映像化すれば、ずいぶんと「蜩ノ記」とは違った印象になるかもしれないとも感じた。


 ところが、ところが…と後半になって思ったことがある。

 この話の筋は、下級武士がその境遇や様々な出来事を乗り越えて、一国の家老まで上りつめていくまでの友や周囲との交わり、関わりと言ってもいいだろう。

 そこに、主人公とかけ離れた人生を歩んでしまった一人の武士が強く関わるのだが、それが最後にとてつもないほど意味を持つ存在であったことが明かされるのである。

 時代劇によくありがちな、対照的な二人を描いているようで、実はそうではない。
 これがまさしく百田マジック的なところで、饒舌に感じた話の展開も、実はその終末に向けられた布石だったと思わせる。


 あまり気にとめていなかった題名『影法師』の意味を、改めて調べてみると、実に趣が深い。

 光が当たって、壁・障子・地面などに映る人の影

 つまり、光がその人に強く当たれば当たるほど、影はよりその濃さを増していくことになる。
 二人の人生がそんなふうに象徴されていたわけである。

 「うーん、そうだったのか、百田尚樹」と、またその仕掛けに参ってしまった。