すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

誰かの言う「チーム〇〇」の危険さ

2014年11月17日 | 雑記帳
 「チーム〇〇」…響きのいい言葉だ。そこには日本人の好きな協力,協調,一体感などがあふれているようだ。これをチームの中の人員が,実感を持って使うのであれば納得はできるが,部外の人が使う場合はどうだろう。もちろん好評価の一つとしての表現はあろう。しかし実はかなり危険な要素も孕んでいないか。


 昔の学校では,よく「共同責任」「連帯責任」などと教師が言って,生徒にペナルティを課したり,解決策を話し合わせたりしたものだ。むろん今もその発想はある。この場合,そう言われて当事者たちが責任を実感するには,一定のプロセスが必要だ。チームの集まりには発端があるし,たどる経過も多様なはずだ。


 青臭い理想論をぶつわけではない。今チームとしてあるにはどんな考えが必要か,立ち止まって少し考えてみよう。現状は,情報化・多様化の中で,一律的な方法のようなもので縛りがちではないか。そうではなく,目的・目標に向かって,基本と応用発展のアプローチがあり,個が互いを認め合う姿勢に支えられる。


 そもそも「〇〇チーム」だけだったのが,「チーム〇〇」という呼び方になったのはいつからだったか。検索しても直接的に触れている記事は見つけられなかったが,もしかしたら「チームバチスタ」なのかな,と思った。「チームジャパン」や「チーム青森」はもっと後だった気がする。「バチスタ」であれば典型的だな。


 当然ながら,自己の役割においてプロフェショナルである,そして他者にアクシデントがあった時のフォローが優れていることだ。個が際立つことが何よりの条件であることは,小説やドラマだからだけではない。とかく「チーム〇〇」を強調したがる人は,成果至上主義に偏り,要素としての個を見ていない気がする。