「2014読了」124冊目 ★★★
『”手”をめぐる四百字』(季刊「銀花」編集部編 文化出版社)
「銀花」という季刊誌は書店で見かけたことがあった。
自分には縁遠い世界かと思っていたが、著名人による肉筆でエッセイ等が書かれていることに興味を持った。
「文字は人なり、手は人生なり」という副題も、なかなかそそられる。
連載されたものの中から50人が選ばれている。
最初は、かの白州正子。
「手を合せる」と題された文章の中で、妙に響いてくる一節がある。
心は心が思っているほどじっとしているものではない。
夜半に目覚めてしまい、再び眠りにつけないときが続いているせいか、妙に実感がある。
(「手を合せる」と落ちついてくる、とも書いていたが、残念ながら今日の未明も眠りにつけなかった)
俳人永田耕衣が、自らの句を題名に掲げ、「掌」についてずばりと言い切っているのも見事だ。
てのひらというばけものや天の川
「手」の俳句といえば、啄木の「はたらけどはたらけど~」が思い浮かぶ。やはりあの場合も、「ぢっと見る」のは手以外考えられないような気がする。
筑紫哲也は「手考足思」と、よく色紙に書いていたという。
人間の脳以上の何かが、この末端には詰まっている気がする。
まあそれにしても、肉筆は読みづらい。
達筆なのか悪筆なのかわからないような字が躍っている。
しかし、考えてみれば、それが肉筆であり、その読みにくさがその人そのものという気もしてくる。
読みやすいということは、ある面で個性がないということ。
それは文字もなかみも同じと言っていいかもしれない。
そうすると、読みにくさと格闘することこそが、理解するという本質かもしれない。
また自分をさらけ出して書くということは、他の読みやすさとは無縁であり、手はそのように動いていく…。
お仕舞いの文章は、染織家の志村ふくみという方。この結びは、本全体を象徴している気がした。
手はその人の願いごとに従いてゆくとも聞いた。
こころざしかたく生きているその人に手はどこまでもついてゆくと。
『”手”をめぐる四百字』(季刊「銀花」編集部編 文化出版社)
「銀花」という季刊誌は書店で見かけたことがあった。
自分には縁遠い世界かと思っていたが、著名人による肉筆でエッセイ等が書かれていることに興味を持った。
「文字は人なり、手は人生なり」という副題も、なかなかそそられる。
連載されたものの中から50人が選ばれている。
最初は、かの白州正子。
「手を合せる」と題された文章の中で、妙に響いてくる一節がある。
心は心が思っているほどじっとしているものではない。
夜半に目覚めてしまい、再び眠りにつけないときが続いているせいか、妙に実感がある。
(「手を合せる」と落ちついてくる、とも書いていたが、残念ながら今日の未明も眠りにつけなかった)
俳人永田耕衣が、自らの句を題名に掲げ、「掌」についてずばりと言い切っているのも見事だ。
てのひらというばけものや天の川
「手」の俳句といえば、啄木の「はたらけどはたらけど~」が思い浮かぶ。やはりあの場合も、「ぢっと見る」のは手以外考えられないような気がする。
筑紫哲也は「手考足思」と、よく色紙に書いていたという。
人間の脳以上の何かが、この末端には詰まっている気がする。
まあそれにしても、肉筆は読みづらい。
達筆なのか悪筆なのかわからないような字が躍っている。
しかし、考えてみれば、それが肉筆であり、その読みにくさがその人そのものという気もしてくる。
読みやすいということは、ある面で個性がないということ。
それは文字もなかみも同じと言っていいかもしれない。
そうすると、読みにくさと格闘することこそが、理解するという本質かもしれない。
また自分をさらけ出して書くということは、他の読みやすさとは無縁であり、手はそのように動いていく…。
お仕舞いの文章は、染織家の志村ふくみという方。この結びは、本全体を象徴している気がした。
手はその人の願いごとに従いてゆくとも聞いた。
こころざしかたく生きているその人に手はどこまでもついてゆくと。