すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

微かに漏れ出してくる魅力

2014年11月06日 | 雑記帳
 先週久しぶりに劇場(言い方が古く思えるが)で映画を見た。『蜩ノ記』である。文庫本をこの春に読んでいて,そこでもわからなさについて記したが,映画を見ても,最初はあれっという感じで受け止めざるを得なかった。描き方が淡々としていて,心躍るといった観賞とはかけ離れた,ずっと静かな心持ちで見入った。


 江戸時代の中期,後期は,藤沢作品などでもよく描かれ,その雰囲気と似てはいるが,より落ち着いたつくりに思えた。それは物語を展開する脚色全体がそうだし,台詞はもちろん,一つ一つの所作に強く感じられた。感情を抑えた演技ということだろう。それが迫ってくるには,やはり一定の時間の経過が必要だ。


 余計な言葉がない,余計な仕草がない,余計な音もない…演出するためのカメラワークやバック音楽もきわめて控え目である。こういう手法はもちろん映画で珍しくはないが,その時代,つまり私達にとっては空想でしか描けない世界を,一本筋が通った見方で伝えようということか。時代の美意識といってもいいか。


 主人公役の役所広司は当然ながら,相手役となる若い侍を岡田准一が好演している。「軍師官兵衛」に通ずる点もあり,ますます存在感が際立ってきた。ある雑誌記事で,こんなふうに語っている。「内面には大きな感情の塊がある。僕たち俳優は,そこから微かに漏れ出してくるものを表現する」まさに言い得ている。


 昨日の「念を生きる」に結び付く点があるかもしれない。心に入れる塊が,決意であれ悔恨であれ慕情であれ,それに蓋をする。背景や経過は個々に違うが,それを抱えて生きるのは,真に大事なものを愛おしむということだろう。そう想うと,現代人の多くはあまりに気持ちを溢れ出させていて,自分を軽くしている。