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堂々と流される難しさ

2018年12月11日 | 読書
 一番大切なものは「」と大方の人は思っている。もしかしたら、それ以上に「誇り」もしくは「尊厳」といった言葉で表されることを大事に考える人がいるかもしれない。生や死について真剣に語るとき、結局はそれらを巡る話になるのだと思う。「流される」とはある意味で、その点を突き詰めないことに似ている。



2018読了113
 『流される美学』(曽野綾子  興陽館)



 読み始めてすぐに「いわゆる運命論者だな」と思った。今まで読んだ範囲でもそう感じていたからだろう。自分で自分のことをそう感じたことはないが、本章第一項目「堂々とそして黙々と人間は流されなければならない」の冒頭文(下記引用)を読み、全くその通りで、人は多かれ少なかれその範囲に留まると考えた。

 私は大きな方向は自分で(決めたいと願い)、小さな部分では流される(ことは致し方がないと思う)ことにしている。いや、その逆かもしれぬ。


 「逆かもしれぬ」二つのこと、つまり「大きな方向」と「小さな部分」のとらえ方が、その人の人生ではないか。進学、就職、結婚などと服装、食事、生活習慣といったことは、一見大小の区別がすぐ付くと思いがちだが、はたしてそうなのか。仮にそうだとして、ではその大小の区切りはどの辺りを目安とするのか。


 その問いを前に置くと、この作家が著書等で戦時中のことや海外の発展途上国の現実に目を向けながら、読者に説く内容に反発を覚える人もいるだろう。「運命は変えられない」という究極論は、生き方の優先順位を考えるうえで参考にはなるが、どこまで運命の範囲とするかを押し付けられている気がするからである。


 とは言っても読み通すと共感できる部分が少なくない。「筋を通さない」と少しでたらめなことをしたり、「日陰の部分が人を成長させる」と不遇や失意の時期の必要感を語ったりすることに、人間味が感じられる。少し引いた見方に惹かれるのは齢のせいだろうか。それを「美学」と片付けるレベルには達していないが。