すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

歳末、キニナルキが降る

2018年12月29日 | 読書
 『ちくま』1月号の読み応えはいつもと変わらないが、考えさせてくれる表現が目についた。


Volume.133
 「六十代前半のおっさんたちは、どうも最近、年齢の話に過敏というか、あんまり年齢を意識させることを言うと極端に落ち込む場合がある。ガラスの六十代は取り扱い注意なのだ。」

 ブレイディみかこが書いている連載の一節なので、具体的にはイギリス、つまり英国男子(笑)を指しているのだろうが、日本にも当てはまるかなと考えてしまった。
 当の自分は棚上げすると、やはり定年退職、定年延長、年金等々の問題と直面するから、いろいろと考え込むことはあるのかもしれない。
 世代的に「ガラスの六十代」とは、なんとなく言い得て妙だ。


Volume.134
 「嫌われること好かれることが、現実世界より簡単に頻繁に起こる中で、『もういいや』ってそこに振り回されるのを放棄して、やりたいこと、したいことを優先できたひとから、ネットの自意識から逃れていくのかもしれない。」

 「エゴサ」とはなんことかと思ったら、エゴサ―チ(自分の本名やハンドルネームなどをインターネット上で検索して、その評価や評判を調べること)の略らしい。そのことを話題に、最果タヒが書いている。

 自己顕示欲を表す場としてネットはお手軽だけど、本人の思うほど効果?はあるわけがなく、その点に気づくかどうかはネット以外の場と同様じゃないかと思う。
 道具としての有用性を生かすことに絞っていけば、エゴサはエゴサなりの意味が出てくる。


Volume.135
 「足がある人は歩ける、足がない人は歩けない、というのは本当だろうか?足がないというインペアメント(症状)と歩けないというディスぺアビリティ(能力欠如)は同じことなのだろうか。そうではない。」

 萩上チキが、障害に関する新書の書評に書いた。「障害学」の考え方だそうである。
 「自立」する力を高めることが子育てであり、教育の仕事だと疑わずに生きてきた。今は否定できないけれど、ひょっとしたら優先順位としてもっと考えるべきことが出てくるかもしれない。
 そこを揺さぶらないと、蔓延する自己責任論、不寛容な社会に同調していく気がする。

 取り上げられた新書『なぜ人と人は支え合うのか』(渡辺一史)が、今年最後の注文Bookとなるか。