すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

あれから,ひとまわり

2013年09月20日 | 雑記帳
 所属している教科の授業研究会が行われた。地区持ち回りで会員の所属する学校が会場になるが、今から12年前も同じ場所で開催したのだった。その年度の会誌を探してみたら、ずいぶん懐かしい。夏冬2回の研修会をもったり、授業研究ではパネルディスカッションを取り入れたり…。ちょっと隔世の感がある。


 2001年のことを調べてみて、少し驚く…1月、J・ブッシュ大統領就任、2月アメリカ原潜えひめ丸事故、3月、大阪USJオープン、4月、小泉総理誕生、6月、大阪池田小事件、そして9月アメリカ同時多発テロ。10月、アフガン空爆開始、11月イチロー大リーグ一年目の首位打者。12月愛子様誕生。


 後半、明るい話題はあったが、明石の花火見物の事故、新宿歌舞伎町の雑居ビル火災など記憶に残る痛ましいニュースが多い年だった。新世紀のスタートの年はこんなふうに始まったのだった。同時多発テロによって急激に顕在化した対立の構図、小泉内閣による劇場型政治の進行、そして内外から揺さぶられる学校。



 この年を境に、と括るわけではないが、あきらかにエポックメーキングだったろう。教職という仕事を取り巻く環境も、その前後の変化は際立っていたように思う。それは端的に「外からの目の強化」と言っていいかもしれない。一面ではひどく真っ当なことだったが、同時に内なる目が弱まったことも指摘できる。



 子どもを、そして自分を見ていれば、それで結構成り立っていた教員の目は、活性化とか信用とか安全とか学習状況とか、そんな号令が出る度に、少しずつ顔の向きを曲げられて、それに追いつかなければならなかった。干支がひと回りしたのだから、自分の向きもひと回りしたはずと考えるのは、あまりに楽観的か

最後は「あまちゃん」かい!

2013年09月19日 | 雑記帳
 『やまなし』の学習のまとめは、教科書にある「たいせつ」という箇所に従って文章を書かせた。短い時間では主題を扱う活動は難しい。ただ「題名のつけ方」という観点もあったので、少しだけ説明を加えてみた。今までの物語のふりかえりにもなる。極めて自己流の分類だが、一つの目安にはなるかもしれない。


 一つめは「名前型」。つまり主人公、主役の名前を持ってくる型である。「桃太郎」「スイミー」から「ごんぎつね」。また「大造じいさんとがん」もその変形だ。ドラマ系には非常に多い。水戸黄門、ウルトラマン、サザエさん、そして、半沢直樹!鉄板の名づけと言ってよい。詳しく見るといくつかの層がある。


 二つ目は「キーワード型」とした。「わらぐつの中の神様」のように人物が語る大事な台詞であったり、何度も登場してくる言葉であったりする。三つ目は「モノ・コト型」と名づけた。キーワード型と近いが、いうなれば事件、話題という意味を強調する。「お手紙」や「カレーライス」、そして「やまなし」。


 ここで唐突に、じゃあ「あまちゃん」はどうなのだ?といった疑問が浮かべばとてもよい(当然そんな子供はいないが)。これは複合型であることは容易にわかるが、いくつ考えられるか、だ。「甘ちゃん」「海女ちゃん」それから主人公の名字の「天(野)ちゃん」。「アマ(チュア)ちゃん」もあるのではないか。


 さえない、認識不足という意味での甘ちゃんであった主人公天野アキが、海女の仕事に挑戦する。言うなればアマチュアからプロへの憧れ。地域興しに関わってアイドルへ方向転換する。ここでも甘、アマからの脱却を図ろうとする。その勢いが魅力の、ある意味アマチュア讃歌だ。アマチュアの原義は「愛する」。

偉大なる後見人

2013年09月18日 | 雑記帳
 『おくりびと』が映画賞に輝いたときもスポットはあたったが、今また例の「くまモン」絡みなのか、小山薫堂ブーム?のようである。雑誌『Pen』の9月号で特集されたと思ったら、今度は『DIME』でも大きく取り上げられている。雑誌編集者たちのねらい、読者のニーズはどのあたりにあるのだろうか。



 小山の考えはそんなに斬新なものではない。何故受けるかといえば、わかりやすさ、庶民性といった点か。ポイントカード貯めへの執着を宣言するセコさ感に惹かれるのか。しかし、そういう些細なことへ徹底してかかり切るところに、したたかなメンタリティがあるのだ。それが「企画」を商売にできる素地になる。



 「小山薫堂ってどんな人?」という一言アンケートがなかなか面白い。秋元康がこんなふうに言う。「人当たりのいい魯山人」。魯山人自身の性格は書物やドラマでしか知らないが、なんとなく言い得て妙だ。今社会に求められている「核」や「芯」の役割を果たす人の多くは、その二つの要素を持ち合わせている。



 とは言いながら、直接的に読者を惹きつけているのは、もしかして「あのくまモンの…」ということなのか。開発者でも推進役でもなく後見人のような役どころと思うが、小山の存在と周囲を巻き込む力は大きい。ゆるキャラ全盛、もはや過剰的な状態の中でのヒットは、波及効果のなかで益々拡大する。お見事。



 こうなると、元祖ゆるキャラ日本一(幻のTVチャンピオン編)の秋田県としては実に悔しい。県外の人には馴染みは薄いだろうが「スギッチ」である。こちらもとうに県職員の活動をしているが、アピール度は今一つ。スギつながりで「すぎちゃん」とのコラボはもはや時遅しの感があった。強力な後見人が必要か。

心動かされる信念の言葉

2013年09月17日 | 読書
 『劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」』(浅利慶太 文春新書)

 巻末についている「美しい日本語の話し方」教室台本から読み始めてみた。
 学校現場に直接いって,子どもたちを対象に教えるときのマニュアルである。三人の俳優が,進行役やモデルとなって発音法を中心としながら,指導していく道筋は実に明快だった。

 「母音法」について多少の知識はあったが,具体的に例文,段階が示されたので,これはかなり参考にできる。
 発音指導について一年生止まりにしない工夫が「話し方」を教える基本的な考え方であることを,私達はもっと意識しなければいけない。自省を込めてそう思う。

 さて,一章から四章までの「日本語について」「母音法」「呼吸法」「フレージング法」もそれなりに面白く,新しい知見も得られたが,個人的には五章の「劇団四季の歴史」がとても興味深かった。

 世の多くの四季ファンを惹きつけてやまない理由が,その章に書かれてある著者自身の決意と歴史に詳らかに表れている気がした。
 目的がぶれずに,しかも現実的な采配をこれだけ長い期間ふるってきたことはある面で驚異と言えよう。

 貫いてきた信念は「言葉」へのこだわりであったことは言うまでもない。
 私は演劇論,俳優論などじっくりと読んだことはないが,そうであっても,著者のこの言葉がかなり一方の極に位置しているものであることは予想できる。そして,心動かされる。

 伝えるべきは正確な言葉。表現すべきは作家の感動。
 感情は観客の中に宿ればよく,俳優に宿る必要はありません。


 俳優におけるリアリズムとは何か。これを強く考えさせられる。
 自分という器の存在をどう広げ,磨いていくのか…鄙に住むゆえ観劇する機会は頻繁ではないが,また少し見る目が加わった気がする。


 気になる一言があった。
 著者が恩師として心酔していた加藤道夫という方がよく話していたことだと紹介されていた。

 「東北弁は美しい。もしこの言葉が標準語だったら,日本語のオペラと詩劇の完成は一世紀早まっただろう」

 この文章にある具体的な意味での「美しさ」とは何か。
 そこに住んでいる自分がはたして捉えられているのか。響かせる場にその意識があるのか…。
 方言調べはよくするけれども,自分自身の実感の頼りなさが浮かび上がってきた。

ただ真っ直ぐに走れれば

2013年09月16日 | 雑記帳
 連休初日は,朝から学区内の保育園運動会へ。天気はいいが朝から気温が高い。開会セレモニーが終わり,年少組から年長組までの「かけっこ」。幼い子の競争はコース無視で,速い子に寄る傾向があるのは一年生も同様だが,一番年齢が低い組はその意識もなく,ただ前を向き真っ直ぐ走る。その姿はどこか新鮮だった。


 午後,録画しておいた映画『許されざる者』を見る。本家?クリント・イーストウッド主演作である。そういえば西部劇を見るのは何年ぶりだろう。いや少なくとも十年以上は記憶がない。なんだかよく感覚がつかめないまま見通してしまったが,結局いつも官憲は横暴だし,抵抗は止まない。あの国はいつも同じだ。


 二日目,雨が近づく予報なので,朝のうちに秋の山へちょっとだけ入ってみる。まだとは思いながらのキノコ偵察である。案の定,まだ10日以上は早い。下見なのでいいかと思ったら,ミズナを発見。小さいが好物のコブがあるので採ることにする。もっと知識があれば,山の恵みを受けとめられるんだろうなと思う。

 
 読み終わった『いねむり先生』のドラマを見る。予想した通り西田敏行はぴったりのはまり役だった。あのサイズに詰め込めるエピソードは限られているが,ちょっと物足りない。二人の共鳴に焦点化せず,原作以上に夏目雅子絡みを強く押し出しているあたりがテレビの限界かなとも感じる。陽水役に谷原かと驚いた。

二人の共鳴の物語

2013年09月15日 | 読書
 『いねむり先生』(伊集院静  集英社文庫)

 伊集院小説は文庫本が書店に並べばすぐ買うようにしている。
 今回も何気なくとり,家に帰って改めて本の帯を見直して,おっと思った。
 この頃,結構多い「ドラマ化」なのだが,9月15日と書いているではないか。たぶん見るだろうし,これはその日まで読了しないと…。
 ということで,風呂場読書オンリー,三日間で読み切る。

 最初,ちょっとストレスを感じたのが,KさんとかIさんとかアルファベッド名,さらに結構使われている******といった伏字。
 なんの意味があるのだろう。そもそも自伝的といっても小説なのだから,実名でなくてもいいわけだし,本人自体はサブローなんて全然関係のなさそうな名前をつけているし…と思いながら読み進めていった。

 しかし途中から,これが事実と小説の際どいバランスのとり方といってもよいのかなあと感じ,あまり気にならなくなったから,まあそんなものかもしれない。
 いねむり先生の本名も著名なペンネームも一貫して******で通していることが,書き手として一つのこだわりがあることは間違いない。

 二人の「共鳴」がこの物語を貫いている。
 いくつも印象的なシーンがある。
 特に「描写」という話題で,サブローが言ったこの言葉に先生が反応する箇所がいい。

 「子供の頃,絵を描いている時に,蜜柑をそっくりというか,なるたけ蜜柑のように描きたくて描くんですが,精巧に描けば描くほど違っていってしまうのと似ている話ですかね」

 ここには,どうしようもない「自分」という存在の喘ぎ,というようなものを凝視できる人間の感性がある。それを激しく感じ取れる人間はよい小説を書けるかもしれないし,また精神を病むかもしれない。
 そのぎりぎりのところで作品を仕上げてくるのだとしたら,安易にその世界へ足を踏み込むことも躊躇われるが,それゆえの魅力も感じる。
 『狂人日記』(もちろん魯迅でないほう)に手を伸ばそうか,どうか。


 もはや伊集院は「無頼」というキャッチフレーズは似合わないほど,メディアに露出している。
 ただ,人生のどん底の時期における「いねむり先生」との邂逅によって小説家という生業に就いたことは,たえず本物か贋物かを人に問いかける彼の存在を,使命としてまた役割として明確にしたのかもしれないし,今の状況もそう悪くは思えない。

 鮮烈なエピソードに彩られるこの物語をどんな脚本に仕立てるものか,ドラマ化はちょっと楽しみである。

今週のさえずり

2013年09月14日 | 雑記帳
 月曜日。9月2週目、力の入る時期だ。今日から教育実習生を迎える。学校説明をする前に、本人の希望や現況など少しおしゃべりをする。教員志望とのこと。昔ほど極端ではないかもしれないが、やはり教員への道のスタートは実習である。実習の鮮烈な体験によって、険しいけれど光ある道筋をつかんでほしい。



 火曜日。着衣水泳が行われた。よほどでなければ着衣のまま泳ぐ事態はならないが、今は様々な想定をする必要がある。さて、ペットボトルを利用する段になって、教師の指導なしに上手に浮かんでいる子をみると,なかなか?の人たちである。これは何かの象徴と言えるだろう。生きる力とはそんなものである。



 水曜日。来月の祖父母参観で交流会を行うことにした。初めての試みだ。一回目なので、クイズ担当をすることにした。その内容について検討開始。この地域も市町村統合があって合併されたが、やはりそれ以前の出来事が圧倒的にネタになりやすい。地域密着が薄れていくのは確かで、それは教育にどう響くのか。



 木曜日。昨日の退勤後、散髪にいったら、案の定一年生が「カミキッタ」と話しかけてくる。思えばこの「カミキッタ」はずいぶんは流通している言葉だ。タモリの影響なのだと思うが、それにしてもここまで一般的だと、「髪を切ったの」「髪を切りましたか」と言い直すようには言えなくなる。もはや慣用句並か。



 金曜日。先週末から六年生の『やまなし』の指導をしている。今日は読み取りの最終5時間目。いつもにまして難しさを感じる。ねらいの絞り込みを心がけているが、どうしても前例(それもずううっと昔の)に捉われ、余計なことを言ったり、教えたりしたい自分がいる。老化現象いや性格なのか、これは致命的だ。

「待ち合わせ」を見て妄想

2013年09月13日 | 読書
 新潮社の『波』誌で新しい連載が始まった。

 「俳句と短歌の待ち合わせ」と題して、俳人の堀本裕樹(有名な人らしい)と歌人の穂村弘が1ページずつ受け持つ。
 ひと月交代で兼題を出し合って、句と歌を作り、解説?を加えるスタイルらしい。

 よし、素人なりの妄想イチャモンをつけみようと思い立った。
 たまには俳句や短歌に向き合ってみるのも面白そうだ。


 今月の兼題は「椅子」。穂村の出題である。


 新涼やひさしく触れぬ椅子の脚(堀本裕樹)

 ああ、これは木製椅子よりも、金属系の脚を持つ椅子だろうなあ。思い浮かぶのは、カーテンの揺れ、書斎風の部屋。
 一瞬、女性のイメージもわくが、やはり男性が腰かけると思い定めて…。

 ぱっと触ったのか。それとも撫でまわすようにしているのか。
 腰かけたままに片手を伸ばすとすれば、それはとても意味ありげな姿勢に見える。

 いや、もしかしたらまだ触れもせずに眺めているのか。
 ステンレスのような金属に、窓のレースカーテンの揺れが映り、語り手は息をのむ。
 じっと見入ったまま動かない彼。窓から入る秋風が頬を撫でていく。
 椅子の脚に触れたい、その脚の冷たさを感じたい…かなりsexyな仕上がりですね。


 透明な椅子が近くにあるはずだそれから透明な洗面器(穂村弘)

 いやあ、これだけなら、もはやシュールな世界だな。
 作者は強度の近視であって、その風呂場での日常を描いているようなことを書いている。

 しかし自分で「椅子」と出して、透明な椅子とは確信犯的ではないか。腰掛けるための椅子が色や形をみせなくとも現実にある、というのは比喩か。
 そうだ、誰しも透明な椅子が近くにある。その存在に気づく人、気づかずずっと遠くばかり見つめている人…あせらず手探りを続ければ居場所はあるよ、そしてその傍には洗面器もあって、水を汲むことも運ぶこともできるんだ、君の人生は心配ない、しっかり歩めよ…って、安っぽいJポップの歌詞じゃないんだから。

 ただ、風呂場に入った近眼の自分が、いつもの場所にない椅子と洗面器を探してうろたえる歌なのか。
 それとも「透明な」という繰り返しによって、あるべき物が見えない喪失感をうたったものなのか。

トキタマ,猿に出会う人

2013年09月12日 | 読書
 「トキタマの意味はこれでいいのかな」…職員のつぶやきが聞こえた。何かのアンケートの選択肢としてその言葉がでているらしい。「『時々』より頻度が低い」という位置づけになっているとのこと。「時々」と「たまに」とが混ざっているのでそういう解釈だろうか。これは辞典を引いてみねば!追究が始まる。


 広辞苑では「時おり。時々。たまに」と載っている。これではわからない。明鏡も同じだ。漢字では「時偶」である。そうだった。「たまに」とは「偶」なのか。偶とは「人形」を表わす。「似たもの→仲間→二人並ぶ→2で割り切れる」という意味の流れは自然だが、それから「たまに」への変化はどう解釈する。


 そもそも「禺」とは、大型の猿、獣をあらわした象形文字である。そこに「人」が隣り合う「偶」。この意味に「予期せず両方が出あう」とは、ある意味で宗教的でもあり、どこか哲学的でもある。「人」の部分と「禺」の部分との出合いが「偶」だとすれば、なんと意味深なことか。理性と本能まで飛躍する。



 禺と関わる漢字の意味はどうも不安定に見える。「遇」「寓」「隅」…あまり統一感がないことにも何か訳があるのだろう。いやそれは「たまたま」ですよ、と言って収めてしまおうか。とにかく「トキタマ」に決着をつけるべく類語辞典を開く。そこで「時偶」の解釈はこうだ。「『時時』の、より口語的な言い方


 関連する熟語を間隔が短い、頻度が高い順に並べてみると、こうなるようだ。「間間」→「時時」「時偶」→「時折」…このあたりを意識的に使い分けてみる学習なども面白いだろう。「時」に関しても次の三つがある。「時に」「時には」「時として」。この三つの違いも興味深い。時偶、やってもよくないか。

自分流に置き換えて,踏み出す

2013年09月11日 | 読書
 『小山薫堂 幸せの仕事術』(NHK出版)

 究極のポジティブシンキングと評していいのかもしれない。

 僕の人生において、本当の意味での失敗というのはない。常に最良の選択をしてきていまがあるのだと、自信を持って言えます。

 こう堂々と書く著者も「幼い頃はむしろ真逆の性格でした」と、あとがきで振り返っている。
 父母をはじめ様々な人との出会いによって、その性格が形成されたと言えるだろう。
 しかし多くの同じような境遇、環境にある人が、全て著者のような能動的な姿勢を持っているとは限らない。

 この著書を読み、そうだ自分も!と思い行動しかけるが、明日はまた本を読む以前の自分に戻っているとため息をつく人は、何万人もいるのかもしれない。

 この二つを分かつのはいったい何だろう。

 …続けるということ?前へ進もうとする積極性?それとも、そもそもの性格ということ?
 こういうふうに、出来ない理由を考える、つまり言い訳の部分を挙げて自分を安心させようという心根なのかもしれないね(笑)

 著者の考えを示すキーワードの一つは、以前読んだ新書のタイトル「もったいない主義」である。

 これを例えば個人の行動改革に当てはめてみて、使える手法は「置き換え」ではないかと思いついた。

 つまり、今目の前にある仕事や成すべきことを、定位置でないどこかに置き換えるという発想を持てば、見方も変えるし、動きも変わるのではないか。

 その不必要と思われている○○、どこかへ置けば役立つのではありませんか。
 この~~は、向きを変えて置くと、とっても良く見えるんだよね。
 その隙間時間は、●●をしながらやると、結構出来ることありますよ。
 それから…あそこにある役に立ちそうもない△△、よく今までそこにあってくれましたね。感謝します。

 そんなふうに目をつけて、置き換える。つまり、一歩踏み出す。

 やっちまえよという踏ん切りの連続で、昨日の自分から遠ざかる。