すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

役割があることの力を

2014年05月21日 | 読書
 「2014読了」54冊目 ★★

 『しつけの知恵』(多湖 輝  PHP文庫)


 副題が「手遅れにならないための100の必須講座」とある。
 私が手にしたのは、2010年刊の第1版29刷である。単行本が2001年、文庫化が2003年だから、ずいぶんと版を重ねている名著であろう。

 第一章から第十章まで10項目ずつ、全部で100。
 どれも著者の経験や知識から説得力をもって書き出されている。

 幼時期から小学校前期の子どもに対するしつけのエッセンスが盛られていると思う。

 私たちの目から見ると、最近増えつつある子どもに同化しまいがちな親にとっては、もはやハードルが高い項目と思えるものもある。
 さらに、子育てはやはりトータルな親の姿勢によって決まってくるものだし、自分に都合のいい項目だけ実践できても、その効果は低いかもしれない。

 しかし、仮につまみ食い的になったとしても、この本の一つや二つを自分で信じてやりぬいていくことからしか始められないだろう。

 結局、「しつけ」とは、いかに子どもに負荷をかけて育てていくかという点に尽きる。

 その意味では、大人が自分に負荷を科すという気持ちをもって取組んでいくことなのだと思う。


 ページの端を折った箇所は10を超す。
 その中で一番納得できたのは、次の項目だった。

 「家庭内の仕事や行事で、つねに子どもの役割をはっきりさせておく」


 珍しくない提言であるが、その根拠となった研究が興味深かった。
 著者の属するグループが、災害時の各家庭の対処を研究したときに、役割分担の明確性が重要であることが浮かび上がったのだという。
このように記されている。

 かなり小さい子どもにまで、どんな些細なことでも、役割を一つ割り振っておくことが、緊急時に大きな意味を持つことが、今までの数多くの災害経験の報告から注目されたのです。


 このことは、単に仕事の分担上のメリットではなく、次のような意味付けがなされている。

 かなり小さな子どもでも、自力で真剣に危険を回避する知恵を働かせ、与えられた役割を果たすよう機敏に行動することがわかったのです。


 災害時において、足手まといであり、気がかりである小さな子どもの存在についての、見方を転換する発想だと思う。

 日常生活で子どもに役割分担して、能率が上がったりすることは多くの場合ないだろう。
 かえって厄介であるというのが、本音だ。
 しかし、だからといって段階に応じて役割を与えないことは、まさしく「生きる力」を削ぐことだといってもいい。

 子どもは、役割によって「人」としての大事な認識を一つ手に入れる。

問題提起か問題視か

2014年05月20日 | 雑記帳
 『美味しんぼ』の表現をめぐっての批判が喧しい。昔からのファンではあるが、週刊誌で読むのではなくコミック派なので、今回も実際には目にしていない。ただ大震災以降、原発事故はあの漫画が取り上げる重要なテーマの一つであったので、ストーリーとして登場するのはごく自然であろう。その是非について語る見識はないが、この騒動自体は気になる。


 言ってみれば、たかが漫画である。その表現をめぐってこんなふうに騒がれるのは、『美味しんぼ』がとても有名であるからだろうか。取り上げた放射能汚染についての関心が、多くの人に影響を及ぼすからだろうか。なんとなく、ネット社会の中で、その漫画に目をつけた小さな発言が、拡大再生産されているような印象をうける。こればかりの問題ではない。


 同志社大学教授で漫画評論家の竹内オサム氏が、新聞に寄稿していた。次のようにまとめられた。

 20年前、いや10年前に同じことが起こっても、これほど問題視されなかっただろう。新聞やテレビのような影響力の大きいメディアが、よく分からないことに触れずに回避しようとするとき、それをおえて取り上げ、問題提起するのがサブカルチャーの良さだったはずだ。漫画はかつてそうでありえた。一つの漫画の一つの描写がこれほど問題視されるのをみて、漫画を見る世間の目は、本当に変わったんだなあと実感するのである。


 漫画がサブカルチャーの範疇から出たと解釈すべきか。または、サブカルチャーに対する認識が変化し、その存在を取り巻く環境が変貌したととらえるべきか。様々な切り口で解説はできるだろうが、少なくとも、問題提起という受け止め方と、問題視される受け止め方では違いは明確だ。メディアの取り上げ方一つでどうにでも色が変わるとつくづく感じる。

子どもの独立世界表現

2014年05月19日 | 雑記帳
 先週の「桜」の続きではないが、芭蕉のこの句はどうなんだろうなあ、と思う。

 さまざまの事思ひ出す桜かな

 この「桜かな」が、他の花ではまったく駄目な気がするし、やはり装置なのかなあ、と引きずりつつ…



 3年に1回ぐらいは購入する有名なある月刊誌を読んでいたら、「『孫と句会』の悦楽時間」という、俳人の長谷川櫂氏が書いた文章を見つけた。

 小学生の俳句を紹介しながら、読者として多いと思われる層に俳句を媒介とした家族とのコミュニケーションづくりを奨めているものだ。

 この頃、俳句づくりの授業はしていないなあ、と考えてみたら、ちょうどこの学校に前に勤務していた頃、「ハイハイ俳句」と名付けて、数時間6年生相手に実践したことを思い出した。

 愚娘が6年生であった。
 その学級にも、結構見どころのある作品が多かったという記憶がある。

 長谷川氏がこんなことを書いている。

 面白い俳句を作る年代というのははっきりしています。それは、小学四年生から六年生にかけての高学年です。


 「子どもという独立した世界」が残りながら、少し表現力を身につけた頃という判断か。

 いくらか俳句、短歌を教えた経験からわかることの一つとして、子どものつくるつまらない作品の典型は、表現語彙のあれこればかり考え、描きたい世界がない場合だ。(それ引き出してやることが仕事なんだけれども)

 存分に体験し、心湧き躍るような瞬間がほしいんだよな、と一人ごちてみる。

 だから、そういう瞬間を的確にきりとれたら、大人が読んでも面白い。
 この句なんかは最たるものだ。

 水てっぽううらぎらないとつまんない

 少しやる気が出てきた。

数字の奥を覗きこみたくなる

2014年05月18日 | 読書
 書店で雑誌あさりをしていて,今月はあまりいい特集がないなあと思っていたら,ムック本のような一冊が目に留まった。

 『日本「意外」MAP』(オークラ出版)


 「47都道府県マル秘ランキング」という宣伝文句も載っている。日本地図のレイアウトに,様々な項目のランキングをくっ付けた体裁だ。
 手を伸ばしたい月刊誌もなかったので,1000円と少し値ははるが,何かのネタにはなるかもしれないと買い求めた。

 内容は,健康,経済,食,暮らし・・・・全部で90以上ある。

 眺めていて,やはり自分の県の順位が気になるし,仕事上の教育のことにも目がいくのは当然だ。
 別に一喜一憂しているわけではないが,これだけ次から次へと見ていると,これっていったい何のためにあるんだ,まあつまり自分はいったい何を求めて見ているんだ,といった思いが湧いてきた。

 結局,ランキングを見たい心理は,いいデータに安心感を得たい,悪いデータの場合は納得したい,ということなのかな。


 順位づけは単純に言えば,「総数」の場合と「平均値」の場合がある。
 それらをごちゃごちゃにしてはいけない。また平均値とは,どのような過程を経て出てくるものか,よく吟味しなくてはいけない。

 例えば,「一番教育にお金をかける県は? 教育費」の項目で,1位高知「449.6万円」,逆に47位愛知「252.9万円」。
 一人当たり児童生徒にかける金額にこれほどの違いがあったとしても,その「検証」はどんな形で行われるべきか。

 それは,一冊の本を書けるほど細かいだろうし,考え方の違いも大きいだろうなあ,としばし数字の奥をどこまでも覗きこみたくなる。

不要なものを身につけたなあ

2014年05月17日 | 雑記帳
 地元それも自宅から近い学校なので,今週は三日間徒歩で通勤してみた。ようやく花粉は飛ばなくなったし,前々からその時期が来たら…と決めていたことだ。1kmに満たない距離で住宅地があり橋を渡っていく,手頃なコースである。しかも,そんなに距離の変わらないいくつかの道筋がある。変化もつけられる。


 わずか12,3分で到着するが,ふだん歩かないものだから,いくら近所といっても経路にある様々な事物に興味を惹かれてしまう。それは家の佇まいであったり,植えられている植物であったり,ちょっとして風の流れであったりする。いかに車社会に毒されて暮らしてきたか,わずか三日とはいえ,考えさせられる。


 初日の帰路に通った橋は,実は春までの通勤時に毎日車で通ったところだ。出来てからおそらく十数年経つだろうが,一回も歩いて渡ったことがないことに気づいた。また,気になるのは人の視線,6時近い時刻は勤務帰りの車も多く,歩く人などいないものだから,ほぼ全員が見てくる。自分もそうだったのだろうか。


 以前4年間務めた時は,ほとんど歩かなかった。ふだんからどういうわけか荷物は多いし,雑多な物を車に詰め込んでいる。面倒くさがり屋の典型はどうしても車に頼る。持ち物も時間帯もダイエットしないと,徒歩通勤はできないなと思う。さらに雨対策。二日目は大きな傘をさして帰ったが,やはり濡れてしまう。


 本当に必要なモノ…これを考え,絞り込むだけでも価値がある。そもそも車自体が,出張業務がなければいらないわけだし,極力絞ってみることが生活改善につながるか…と言いつつ,結局通帳作成のため証明書が必要になり,徒歩でもどって帰宅し,結局車で学校へ向かうという,なんとも締まらない三日目でした。

事実の継続がナンバー1

2014年05月16日 | 雑記帳
 『ためしてガッテン』を時々見る。先日「20年目の大感謝祭」と銘打って特集をしていた。19年間の全ての項目から,好評だったものをいくつか紹介したのだが,ノーベル財団に依頼して「ガッテンワザナンバー1」を決める企画はなかなかだ。つまり一番信頼性のあるものを,権威ある団体が選び出すことだ。

 
 一番となったのは「はかるだけダイエット」。ちょっと意外な気もしたが,わからないわけではない。実は自分も試して6~7kgは落としたことがあるので,信頼はしている。数値を継続的に測るということは,常に「気にする」ことだし,それが自分の願望に近づけていくための有効な策になるのは疑いないだろう。


 「計るだけ」という単純さゆえに,続けられる。「数値」が見えるから,自分の脳にインプットされる。少しでもいい数値が出ると嬉しいので励みになる。悪かったら何かと原因を考える。深刻に実行しようとしなくとも,ほんの些細な行動を続けられることで,形を成していくようである。うまく心理をついている。


 『ほぼ日』主宰の糸井氏も,このダイエットの実践者である。この極意を氏はこんなふうに書いている。

 食いすぎたなぁ、とか、太ったかなとかの感覚よりも、
 体重計に乗って「数字」で見ること、それを、
 毎日比べてなにか思うことが、変化をもたらすんです。
 「数字が苦手」とか、言ってるよりも、
 体重計に乗って、数字という事実を目で見ること。
 そこから、大きな変化だってスタートできるんですよね。



 感覚と事実。どちらも大事にすることだけど,対象によってどちらを重視するか,はっきり決めたほうが効果が出る。この当たり前のことを噛みしめてみよう。通常の仕事や生活においては,事実を積み重ねていく方が圧倒的に「改善」には役立つようだ。感覚は本当に信じていいものだけに絞り込むことが肝要だ。

だからといって花見止めません

2014年05月15日 | 読書
 「2014読了」53冊目 ★

 『桜は本当に美しいのか』(水原紫苑  平凡社新書)


 今年は学校や公園などの桜も見事だったが、山に自生する桜もよく目立ったように思う。
 数回出かけた山間部への行き帰りにそう感じた。

 桜並木そして一本桜、どちらも人間が意図的にその場所に置いたわけだし、姿を愛でてはてはいても、歴史的に続いてきたそういう配置、集約行為に多くの人は関心を払わない。
 またそうであっても、山桜とそれらを見る目には、実際にはどこか違いがあるのかもしれない。


 著者が抱いた問い。

 「桜を美しいと感じるのは自然な情緒なのか、そのように刷り込まれただけではないのか」
 
 なるほどと思える疑問ではある。

 歌人としての知識、キャリアをもとに、万葉集、古今集、新古今、西行や定家などの桜のうたを取り上げ、そして現在の「さくらソング」に至るまで見通して、「桜論」が述べられている。
 正直、古典オンチの自分には、キツイ読み物で理解できない部分も多かった。

 結局、著者が結論づけたことは、「国家による桜文化の創造から変容」である。

 それは、古代の和歌の世界から端を発していることをひとまず横に置いたとしても、「武士」や「戦争」と絡んだ美化があったことは容易に想像しやすいし、ためらいながらも肯ける結論だった。

 浅い知識で語るが、紀友則のあの名歌「久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」も、考えてみるとその「花」つまり桜はいつからどこにあったのかと問いを立ててみると、作られたイメージという結論に、ぐんと接近してしまいそうだ。


 いろいろな出来事や思いを、桜とともに思い出すことはありがちなことである。
 その意味では、「小道具」と言っていいのか。
 「大道具」の場合もあるのか。

 著者は「装置」という言葉を使った。
 つまり、そこにあることによって心情や思想が形作られる、というやや恐ろしい言葉でもある。

 知らず知らずに、桜を取り巻く様々な事象に振り回されている人間(自分)には視点の大転換を促す、強烈な副題がこの新書にはついていた。

 欲望が生んだ文化装置


 人は、どんな欲望をもって、桜をそこに置いたか。
 遠い昔のそのことは想像できなくても、今、桜を愛でる人たちがどんな欲望を持つのかを、一枚一枚突き詰めていけば見えるのではないか。

 著者の言葉を借りれば「共同体幻想」か。

 例えば「桜の樹の下で待っている」という一言に、どんな気持ちを見出すか。
 絞り出してみれば、きっといくつか携えている幻想にたどりつく気がする。

 だからと言って、花見はやめません。

トップに送るトップの言葉

2014年05月14日 | 雑記帳
 「原因はコメだ」

 と大胆に言い切ったことに驚いた。

 テレビニュースで見たし、翌日の新聞にも一面で取り上げられた。

 秋田県の佐竹知事が、本県の人口減について、記事のような発言をした。

 さきがけWeb


 社会環境、産業構造の流れからその指摘は的外れではないことはわかる。
 しかし知事がそう言うからには、広範囲なデータをもとに分析し、口を開いたのだろうと予想した。

 その場合に必要なデータにはどんなことがあるのか…就業率から農業に占める稲作の割合、所得状況と人口動態など…いったいいくらあるのか、などと思っていた。

 そしたら今朝の朝刊のコラムには「佐竹知事は議論を巻き起こしたくて刺激的な言い方をしたようだ。」とあるし、さっそくその発言を取り上げた特集がされていて、県の人口対策チームがその発言を受けて分析を開始した、とある。

 そうか、これは一つの宣戦布告(ちょっと大げさだけれど)のようなものか。

 何代か前の日本国首相も、よく使っていた手だ。

 このトップの発言は、確かに論議を巻き起こすに違いない。

 が、それは単に農業従事者だけの問題でないことを、きちんと道筋として示すことが大事なのだと思う。

 コメで暮らしてきた人がいて、それを取り巻く仕事を持つ人がいて、そういう仕組みや世間の中で、成り立ってきた現実にアプローチするには、大胆で緻密な采配が求められることは言うまでもない。


 もちろん、トップは重々承知のうえだろうが、激励の意味を込めて(笑)同日のスポーツ欄に載った、ザッケローニ監督のインタビューの言葉を贈りたい。

 「W杯は監督にとっても夢か」と尋ねられた監督は、こんな格好のいい言葉で返した。

 「夢は寝て見るものだ。注意して選手を見るのが私の仕事。ベンチで目を閉じることはない」

 トップは目を閉じてはならない。

 素晴らしい決意表明だと感じた。

花見が終わりマスクが外れ

2014年05月13日 | 雑記帳
 購読している地元紙の「桜」情報コーナーが姿を消したのは、昨日月曜だ。それはそうだろう、前日にしても県内各所がほとんど「葉桜」の表示だったのだから。しかし一ヶ所だけ「七分咲き」とあり、そこが毎年最後の花見を楽しめるポイントだ。ちょうど土曜日が運動会で、月曜は振替で休日。混雑することもないだろうと、家人と一緒に出かけてみた。


 ソメイヨシノはもう散っていたが、八重桜や黄桜が多い箇所なので、いつものように見ごたえがあった。遠景としての配置もなかなかで新緑になり始めた樹木とのコントラストもいい。2年ぶりにカメラに収め、それを「ことしのさくら」シリーズの締めとすることにしようと決めた。帰りの立ち寄った山の水源地にあった、赤い花をつけた樹木も撮ってみた。

 写真はこちら

 例年より少し意識して、桜を撮り続けた。天気に恵まれ花が映えた気がしたし、昨年よりはずっと見ごたえがあったと思う。先日、NHKの「72時間ドキュメント」という番組で、上野公園の桜に集まる人々の姿を放送していた。会社等の場所取りや宴会の姿はともかく、吸い寄せられるように花に集まる人だかりを見ていると、つくづく不思議な花だと思う。


 十年以上前になるが、その時も振替休日を利用して、町内や近隣の桜を巡ってみようと思い立ち、一日かけて一人で回ったことがある。公園や学校は当然のごとく多いが、目についたのは墓地だった。山間部の村の、墓標が一つか二つしかない場所にぽつんと植えられている桜が数か所あった。文学的なイメージだろうが、やはり生死を強く感じさせる花なのだ。


 先日注文した新書が届いた。桜の季節のふりかえり?の意味でもじっくりとページをめくってみよう。さて、NHKの番組で取り上げられた一人の老女は、桜を追って全国を旅しているという。気持ちもわからぬではないが、のんびりと花見を楽しむことへの羨ましさとともに、その旅の終わりにどんな心を持つのか、どうしようもない寂漠の思いも湧いてくる。


書名がにやりと笑った

2014年05月12日 | 読書
 「2014読了」52冊目 ★★

 『やさしさをまとった殲滅の時代』(堀井憲一郎  講談社現代新書)


 私が持つ著者のイメージは,落語評論家だった。しかし,それだけではないらしい。

 3月末にまとめ買いした本の一冊,この連休にようやく手につけた。

 ぱっと見たとき,「殲滅」ということばをどう読むか,正直わからなかった。

 えっ,なにメツ?ショクメツ?ザンメツ?・・・・
 いつもならすぐ調べるのだけれど,中に書いているだろう…知らないままもオツだな,などと思ったりして,そのままページをめくることとした。

 ふりがなも出てこないし,頻度が多い言葉でもないので,結局ずっと不明のままで読み進めることになった。


 序章はともかく,第1章から第3章ぐらいまでは,ぴんとこない面が多かった。
 もちろん著者とは同年代とも言えるので,80~90年代,00年代の時代認識について,頷けることは多い。
 ただ,具体的な事象については,ここは都市生活者と地方に住む者との違いもあるかもしれないし,情報感度の差かもしれないが,その波をもろに身体で受けたというより,波打ち際にいるような感覚といった印象だった。


 しかし,「『若い男の世間』が消えた」と題した4章以降は,見事にすうっと心に入ってくるようだった。

 火事。祭り。隣村との争い。

 こういう「若衆の世間」の喪失については,おそろしく納得がいった。
 それはおそらく,想像以上に昔から着々と進んできたことであり,今,著者の書いたこの文章の現実感は,ずいぶんと広範囲に漂っている。

 洗練された都市では,空が青く,建物が清潔で,そして男子はやることがないのだ。しかたがない。


 そして「ブラック企業」「ゆとり教育」「暴力性」などについて論は進む…男性としての視点が強いのは当然だと思うが,世の中の流れが絡み合い,つながりあって,個の分断された時代がつくり上げられたことには納得がいく。

 そして著者の現時点での結びは,案外単純なものだ。

 迷惑をかけて生きていく。
 迷惑をかけられたら,面倒くさがらずに世話をしていく。
 そこに,金銭やら経済活動を介在させない。


 単純ゆえに,時代に染まった心身には困難なことでもある。

 まず,きちんと身のまわりをみなければいけない。


 さて,「殲滅」。

 その読み方は全214ページの次の「奥付」に,初めて登場する。

 「せんめつ

 「皆殺しにして滅ぼすこと」という意味である。


 書名がにやりと笑った気がした。