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すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

手練れの作家,見つけた

2015年01月11日 | 読書
 【2015読了】6冊目 ★★★
 『異国のおじさんを伴う』(森絵都 文春文庫)


 知人が好きな作家として挙げていたので,その名前はインプットされていたが,読むのは初めてである。小説でもと思い文庫コーナーで目についた一冊だった。いやあ「手練れ」ですなあ,と感じた。こんなに鮮やかな読後感がある短編集は久しぶりだ。昨日書いた「書き出し」のことを思い出す。一様ではないが,かなり意図的に引きこむ欲を感じる一文である。


 解説子もそのことに触れていて,さらにこう付け足す。「きっちり着地点を見せてくれる最後の一行」…なるほど,である。いわば短編小説のよき手本のような作品集に仕上がっている。しかし,それだけではないな,と考えを巡らせてみる。主人公や登場人物は様々だけれど,そこにあらわされる動きや心情に,読み手が共感できる仕掛けが施されているようだ。


 大雑把であるが,まず修飾語の使い方が上手い。ぱっと開いたページでもすぐ見つかるだろう。たとえばP155「けちくさい報復を秘めた冷笑」,たとえばP110「秋陽を掃き散らすように風が躍って,私たちのあいだにまたも重たい沈黙が横たわる」,たとえば…とこんな調子で拾うとページ分だけ見つかるのではないか。会話の入れ方も劇画的で実に巧みだと思う。


 もちろん,短編だから設定そのものが重要であることは言うまでもない。読者の誰しもが経験する出来事が取り上げられているわけではないが,誰しもが似たような想いを抱くような一瞬を散りばめる,とでも言ったらいいだろうか。そこが真骨頂なのだと思う。筆力とは技術だけでなく,観察力も重なってより深くなると想像する。小説家かくあるべし。


 「ぴろり」という短編が印象深い。特にネタバレしてはいけない作品。ぜひ15分ぐらいのショートドラマ(世にも~)で観たい気がする。シナリオライター経験があるらしいのでそういう要素が十分なのかもしれない。この作品に一つ名言がある。「女の本能あなどりがたし。感傷は消えても煩悩は残る」…これを読んで「男の本能」は逆なのかなと妙に納得した。

休日雑誌拾読,キニナルキ

2015年01月10日 | 雑記帳
 『図書』1月号~作家星野智幸が,マスコミの自主規制に触れながら,急激な国粋化の進行について述べている。

 ◇一気に変化しているように見えるのは,水面下で起こっている変化に,多くの人が気づかないからだ。表面化するのは,すでに積もり積もって飽和した後なので,もはや止めるのはとても難しい。

 今を良しとしない人にとって,着実に起ってきた変化に対してそれを指摘する声に耳を澄まさなかったのは一人一人の責任と言えよう。また,目を凝らすという習慣をどのようにこの国に根づかせるか。



 『ちくま』1月号~穂村弘の連載にあった文章。

 ◇自分のことを大事に考えるあまり丁寧に描き過ぎてブレブレになった自画像よりも,他人がちらっと見て一筆で書いた似顔絵の方が,真実を語っているということか。

 あまり親しくもない人から「あなたは,〇〇なんだね」と言われてドキッとすることがある。外見だけでなく個人の性格などについても同じことが言えるのではないか。細部には多くのことが宿り,一発で見つけられてしまうこともある。



 『本』1月号~妖怪研究家の千葉幹夫が『全国妖怪事典』の編集をするにあたって,課題となった妖怪の定義について紹介している。

 ◇民俗学者の柳田國男は妖怪は神の零落したもの,つまり落ちこぼれだと言った。

 怖いもの,怪しいものという程度しか答えられないのが一般人だと思うが,権威者にそんなふうに定義づけられると,なるほどと思えてくる。そこから恐怖が増すか減るかは,信心?しだいか。



 『波』1月号~作家長嶋有が,小説の優れた書き出しだけを集めたアンソロジー『書き出し小説』の書評を書いている。この分析が鋭い。

 ◇表現の始まりには欲がある。終わりにはない。小説の書き出しには,語りたいし語られたいという(読み手と書き手)双方の欲が宿っている。

 「欲」かあ,と思う。欲望を込められている強さをどんなふうに表現するか,それが書き出しなのかあ。インパクトのあるものも,抑えた叙述も,その後の展開によって意味づけられたり溶け出したりする。音楽のイントロも似ている。

最高齢プロの声を聴け

2015年01月09日 | 読書
 【2015読了】5冊目 ★★★
 『最高齢プロフェショナルの教え』(徳間書店取材班 徳間書店)

 なかなかいい企画だなと思った。プロフェッショナル、仕事論…似たような書籍はあるが「最高齢」と絞り込んだ点には、その仕事にかける真髄のようなものが浮かび上がるだろう。取り上げられた14人の年齢分布は単行本発刊時で、50代と70代が一人ずついるがあとは80代以上、103歳という方もいらっしゃる。まずはくぐり抜けてきた時代の多様さを想う。


 大正期から戦争へ向かう時代に若いときを過ごし、戦後の混乱、繁栄期、そして再び変革期と言える現代までが対象だ。一つの仕事に打ち込んだ方、いくつかの変遷を経て現在の仕事に辿りついた方(といっても実年数は圧倒的だ)それぞれの道筋がバラエティに満ちていながら、共通点があるからこそ、ここに姿を揃えるわけだ。それは「貫く」でしかない。

 いくつも心に響いた箇所がある。多くの仕事人にとって有益な著だと思う。

 最高齢「喫茶店主」には魅力を感じた。

 大学の理工学部を卒業して、企業の研究所に勤め、その後軍隊の技術部隊に入った。戦後もいわゆる技術畑を歩むのだが、接待でいれていたものを「食いつなぎ」のため店を開くことにしたのが「コーヒー屋」の始まりだったという。
 理系、技術系の発想が、コーヒーの味そのものをどんどんと深く、素晴らしくしていった箇所が面白い。真骨頂はこの文章だ。

 ◇ものごとは「なぜ?なぜ?」と掘り下げていくうちに、面白くなっていくもの。それが、好きになることじゃないかな。(略)いつも好奇心を持って「なぜ」と掘り下げて追求する癖をつけることです。

 この考えを具体的に語らないにしろ、他の「最高齢」の方々も同様であろう。

 同じく最高齢「バーテンダー」が語ることにも耳を傾けたい。

 ◇確かに今は不景気だから、苦しい立場にいる人も多いかもしれません。でも現在、自分が辛い状況にあるのは、世の中のせいではありません。過去に自分がしてきたことの結果に過ぎないんです。

 そういう受けとめ方ができるか否か。結局、そこに尽きる。
 凡人とここに載っている方々の差は確かに大きい。
 しかし、だから○○○と、そこにどんな言葉をつなげるか。
 その意志で一歩は決まり、近づくか遠のくかの未来が待っている。

 最後に取り上げられているのは最高齢「声楽家」嘉納愛子氏(現在107歳で現役であるらしい)。
 どんな人生論も、この一言で括われてしまうような気がする。

 ◇103年、生きて思うのは「人生は公平だ」ということ。苦労したら、同じだけ恵みがあるんです。

「ひとり」の哲学に近づく

2015年01月08日 | 雑記帳
 雨模様の日もあったので、雪の重みが心配だったのだと思う。年末には、例年以上に雪下ろし中の事故が相次いだ。年が明けてからは火事による死者も目立つ。それもほとんどが高齢者。近隣の市町村ゆえに気にかかり,これも地方における悲劇の一つの象徴に思えた。一人暮らしの老人世帯に可能性の高くなる災害。


 都市部にも独居老人はおり、自然の厳しさとはまた別の様相を見せている場合もあるだろう。いずれ「ひとり暮らし」の問題はきちんと向き合っていかなければならない。そういえば…と年末の新聞記事を思い出す。「識者コラム・言論」というコーナーで、山折哲雄氏が「今、『ひとり』の哲学を」と題して書いていた。


 津波の被災地の風景や総選挙結果の話題と重ねて、二人の名優(高倉健、菅原文太)の死を悼む。そして「貧乏の知恵」と題して綴っている。人口減少、高齢化による「『ひとり暮らし』の波」が押し寄せるなかで、悲観的なことだけが語られている現状をこう指摘している。

 ◇ひと踏ん張りして「ひとり」で生きる知恵、「ひとり」で生きる暮らしの大切さを強調する声が聞こえてこない。「ひとり」の哲学を説く人間がどこからも現れてこない。


 そういう哲学や信条の持ち主は、もしかしたら嫌われているのかもしれない…そんな状況に社会が陥っている。いや、日本社会はずっと以前からそういった方向だったのではないか…と思いつつ、やはり「ひとり」で生きる意志に象徴される強靭さのようなものが、年々失われていっている現実は認めざるをえないだろう。

 これはひょっとしたら生物としての危機ではないか、などという大袈裟なことまで考えている。
 山折氏が掲げている「貧乏暮らしの知恵」は、次の三つ。

 ◇「出前精神」 ◇「手作り」 ◇「身銭を切る」

 我が身に照らし合わせれば、なんと年々貧弱になっていくことばかり。
 そして確実に老いは進行している。始められるところから実行なければと思う。

教養書を使ってみてもいい

2015年01月07日 | 読書
 【2015読了】4冊目 ★★
 『言葉と作法  親と教師のための教養書』(野口芳宏 登龍館

 『音読・道徳教科書 日本の美しい 言葉と作法 ~幼児から大人まで~』は野口先生が発刊なされた時に買い求めて読んでいる。背筋の伸びる思いでそれに向き合ったが、結果として副読本的な扱いで全校的に取り組めなかったところに、正直、自分の弱さがあるように感じている。いくつかの点において、率先できないという気後れに引きずられた形である。


 それはひとまずおいて、今回のいわゆる解説本、活用マニュアルは「教養書」そのものだと思う。いろいろな講座でお聴きした内容も多いが、新たに感ずることも多くあり、「道徳」価値項目の重要な部分が網羅されている。コラムや参考そして巻末の教育語録、各種法律の抜粋と幅広い視野のなかで、日本の伝統文化を教えるうえでの必須事項が絞りこまれている。


 言葉にこだわることは、先生からの唯一無二といってもいい教えだと思っているが、今回も目を見開かされた。たとえば「表現」という言葉の「表」と「現」の原義にふれ、その本質に触れている。たとえば「家族」の項目では、様々な事例を紐解きながら、存在意義や役割について確かめ、本来「家族」が持ち合うべき心について、ずばりと指摘されている。


 多くの名文の引用があり、どの部分を開いても役立つと思う。子どもたちと共に音読することが本来の使い方だが、ページごとのコピーもPTAなどで十分使えそうだ。「教育名言抄」という頁には、恥ずかしながら初見の文章もあった。その一つを引用してみたい。ブームに乗ってというわけではないが、放送第一話の姿を見て、本当に言いそうだなと思った。

 ◇夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。(吉田松陰)

こだわって,鬼になろうか

2015年01月06日 | 雑記帳
 昨日の講演会で、講師が「ビールはキリンでなけりゃ飲まない、なんてこだわりを言う人も、ちょっと危険ですよねえ」とユーモア半分で話したら、隣にすわった知人が私を見てニヤリとする。私の口癖は「Aビールのス―○―ドラ○は飲まない」であり該当しないと思いつつ、「こだわる」という語が妙に引っ掛かる。


 「こだわる」…広辞苑によると、古語的な意味を除けば次の二つ。「些細なことにとらわれる。拘泥する」「些細な点にまで気を配る。思い入れする」。マイナス面、プラス面の双方の意味がある。明鏡国語辞典では、後者に「新しい言い方で」という前提がある。「こだわりの~~」という商品等によくある価値づけだ。


 児童用の辞書ではどうか。「あることを特に気にする」(チャレンジ小学国語辞典)「気にしなくてもよいようなことをいつまでも気にする」(学習国語辞典)。手元にある二つはマイナス評価だけだ。類語大辞典を調べる。これはバリエーションが広い。動詞の類47、形容詞16、形容動詞42、副詞15、名詞、他28である。


 動詞だけみても9つに意味区分されている。「こだわる」を筆頭に「執着する」「固守する」「貫く」「徹する」「通す」「意地を張る」「強がる」「粘る」。もちろん類語なので、似たような言葉となるが、そのニュアンスの違いは豊かさでもあろう。名詞類の最後に載っている言葉は「鬼」。こだわりもそこまでいければねえ。


 ちなみに語源辞典を調べてみると…「こだわる」の「コは接頭語」、「タワル」は二説あり「サワル」「タワム」。著者は「タワム」説を有力とみている。つまりまっすぐでないということ。まわり道とか寄り道のイメージだろうか。そんなことばかりしていると、届かなかったり遅れたりするという意味なんだろうね。


 けれど、今の世の中、「まっすぐな道」と言われても、それ自体が怪しかったりすることもある(まあ、そう考えること自体に、こだわりがあるということか)。ビールの銘柄のような些細なことから、国の行く末を決める大事なことまで、まっすぐだけでいいのか。たわんでしまったら、鬼と言われて排除されるのも困る。

それを「文化」と呼ぶ姿勢

2015年01月05日 | 雑記帳
 仕事始め。出勤して書類整理などした後に、隣市で行われる研修会へ参加するために出かけた。特別支援教育部会主催による教育講演会、講師は曽山和彦先生(名城大学准教授)である。曽山先生が秋田在住時に多少の関わりがあり、その後も何度かお話を聴いたことがあった。久しぶりの拝聴はとても楽しみだった。


 演題は「通常学級に在籍する気になる子への支援の在り方について」。おそらく多くの学校でニーズが高い部分だろう。年始休み明けにもかかわらず、百人を越える参加者があった。テーマに関わる著書も出版され、多くの発信をされている先生らしく、実に内容の濃い、また理論から実践まで幅広く包括した講演だった。


 数年ぶりだったので、失礼ながら「売れっ子」となった先生が多くの場を踏みどのように変容したのか、という個人的興味もあった。遊学館での講演を聴いてから5年以上は経っているだろう。その時と比較すると、圧倒的にスピードアップしている気がした。感覚的に早回し1.3倍ほどか(笑)情報量が増えている。


 エピソードや例示が豊富になり、聴かせどころもかなり意識されているなあと感じた。まさしく研究者、実践教育者としての研鑚の賜物だろう。もちろん、重要なメッセージもきちんと伝わってきた。曰く「言葉はスリムなほど伝わる」「関係づくりの第一歩は相手への関心」「ユーメッセージだけでは子どもは育たない」


 今回の資料の中に、深く考えさせられた言葉が一つある。それは「ASD(自閉症スペクトラム障害)への支援のワザ」という8番目のシートの中に書かれた次の言葉である。

 ◇文化に寄り添う

 「文化」に下線が引かれ、説明として「感覚の過敏性」「字義性」と例示されていた。そうした障害を持つ子は大きな音に対して耳を塞いだり、何かを極端に怖がったりすることがよくあるものである。また、いわゆる「察し」が困難なため、言葉をその通りに受け取ってしまうことも頻繁である。

 そうしたいわば実態を、「文化」と括っているのである。

 ここで「文化」とは何ぞやという疑問を持ってしまう。

 広辞苑によると「③(culture)人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活の様式と内容とを含む~以下略~」の部分が、該当するのかと思う。
 意訳すれば「固有の行動様式・生活様式」としてもよいだろうが、通常ではしっくりこない用法だ。

 結局,この名づけは、一つの思想なのだと思う。

 つまり、感覚が過敏なことや言葉の複層的な意味理解が困難なことを、抑圧したり矯正したりするものととらえず、固有の文化ととらえ、折り合いや擦り合わせを考えていくという姿勢を表しているのではないだろうか。

 文化と意識することによって、その子に対する向き合い方も変わってくる。
 簡単に読み流してはいけない言葉だ。

場をつくりあげる風

2015年01月04日 | 読書
 【2015読了】3冊目 ★★★
 『ぼくの住まい論』(内田樹 新潮文庫)


 瓦師の山田さんのことを書いているなかに,こんな表現がある。
 ◇「どこをきっても山田修二」という確たる自信が出発点にある

 写真家として活躍されている最中に淡路島へ移住し,見習い瓦工から始め,その後独立した山田さんを,著者はそう評した。
 していることは全く違うにせよ,著者にも同じことが言えるようだなという感想を改めて持つ本である。つまり「どこをきっても内田樹」であると。

 自分の家を建てるという人生の大事業?に対する構えから,この著は始まる。
 そもそも,土地私有論に懐疑的な著者が「自分の道場を持ちたい」という一念から発起するわけだが,そのイメージは「みんなの道場」「みんなの家」づくりなのである。
 そこから「土地」「建築」「林業」「左官」等々,様々な段階において著者が日頃から主張していること,そして見事なまでの「人」との出会いが描かれていく。

 家づくりは,一つの消費活動に違いない。
 その意味で昨日ブログに記した「消費」の教育に関わって,ひどく重要なことが記されている。
 ◇おのれの行動がもたらす長期的な社会的影響をまったく考えにいれずに,短期的に最も交換比率のよい買い物をするのは,未熟な消費者です

 建築のための材料探しを経て,職人の価値観に触れながら,改めてグローバル化のリスクについても強調している。
 ◇グローバルな分業化とは全く逆の価値観で動いています。できるだけ多くの工程をひとりでこなそうとしている。「システム」に対する依存度が低い。


 後半は,「道場」を核として展開していく暮らしや活動に触れながら,教育論・経済論が述べられている。
 それらは繰り返し書かれていることも多いが,「凱風館」と名づけた道場にまつわる具体例が明確なので,また説得力がある。
 ◇学校というのは「母港」なんだと思います。教師は灯台守りです。

 そうありたいと願う教師は多いはずである。
 しかし私たちは,実のところ次のシンプルな言葉にしっかり向き合える日常を創り出せているだろうか。
 ◇苗木を育てるように,陽光を入れ,たっぷり水をやり,開花を気長に待つ。

 それを狭めたり,拒んだりするものの存在を,どこに認めているか…身の内,身の周りに目を凝らすことから始めよう。

去年今年を貫くキニナルキ

2015年01月03日 | 雑記帳
 年末から新年にかけて目にした文章で,自分自身まだしっかり消化はできていないが,これから咀嚼していかなければいけないと感じているいくつかをメモしておく。


 ◇伝統的な教育学では、よりよく生産をする人になるための教育ということを考えてきました。よい働き手になるための教育が工夫されていました。しかしそろそろガチでよりよく消費するための教育を考え始めてもいいんじゃないかと思っています。
 (上條晴夫氏)MM「超!エンタメ教育評論」第136号より

 「消費」のための教育がされてこなかったわけではない。しかし,それは常に「生産」と同じ格付けではなかったろう。「生産」と「消費」が切り離されたものでなく,その結びつきをより強固にしていくという視点も含まれるはずだ。


 ◇教育方法の統一化の危険性については、私も朝日新聞の取材で話しておきましたが、インクルーシブやユニバーサルデザインの考え方を "利用して" 学習スタイルを統一させていこうとすることについてあらためて批判的な意見を述べておきます。
 (塩崎義明氏)HP「ザ・教室」2015.1.1より

 ここ数年ずっと頭のなかで渦巻いていることだ。例えば「スタンダード」という言い方にも,「モデル」といった呼び方にもそうした傾向に重なるものがある。なんのためか,それが本質か,そして負の部分はないのか,どう影響するのか…もっと巡らしてみる必要がある。


 ◇学校こそ,日本人を育てる場所です。
 (庭野三省氏)年賀通信より

 その通り。そして「日本人」はどうあるべきか,それが今問われているという認識をしっかり持つべき。そのうえで,日本人としての芯を強く,太くしていくような教育を営んでいく。

偏愛と感動と実行と

2015年01月02日 | 読書
 【2015読了】2冊目 ★★
 『櫻の樹の下には瓦礫が埋まっている』(村上龍 幻冬舎文庫)

 久々の村上龍エッセイ。昨日読んだ伊集院エッセイと同じように,震災を挟んだ時期の執筆である。書く内容や思想は違っていても,こういうレベルの人は未曽有と言われる出来事があってもぶれないなあと,改めて憧れる。著者の小説はともかく,発言に対しては結構興味があり,それはまた危険な香りのするものだ。この著では例えば「テロという選択肢」。


 もちろん,テロを勧めているわけではないと弁明しているが,次のような問いにはどきっとする。
 ◇テロはどうだろうか。現状に強い不満を持つ若年層は,どうしてテロに走らないのだろうか。

 そして,テロという「抗議や提言」がなされないわけを,こういうふうに分析してみせた。それは方法の是非はともかく,納得できる結論である。
 ◇変化の必要性が叫ばれ続けている割りには,誰も変化を望んでいない。それが現在の閉塞感の源ではないかと思う。


 この著で話題にされている,婚活,周辺外交,震災原発事故,食汚染など,いずれもデータが示すとおりに解釈すれば,悲観的な将来かもしれない。健康,金,そして歴史と現状分析が揃っていない者には,より厳しい時代が待っていることだろう。しかしある程度の予測はしながらも,楽観視したいと,この著からヒントを探している自分にも気づいている。

 例えば,著者がテレビ番組の収録で,貧困をめぐる問題に対する提言について,こう呼びかけたことだ。
 ◇「法律や予算編成を変えなければいけないものと,やろうと思えば明日からでも実行できるものと分けて提言してもらう」

 そして,キーワードとして挙げられている次の言葉。
 ◇「差別」と「偏愛」
 ◇「満足」より「感動」


 きっと,自分自身の手による物語づくりに,より意識的になることがその鍵になっていく。