すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

10月号のキニナルキ

2015年10月11日 | 読書
 『ちくま』
 穂村弘の連載「絶叫委員会」に、穂村が小学校1年生のときに視力が落ちて眼鏡をかけたら父親にこう言われたと書いてある。「これでつける職業が半分になったな」。穂村は父親の失言だったのではないかと思い出している。暴言や悪口と異なる「失言」という本音。そこには、感情を漏らしてしまうという人間的な要素、そして曖昧さが含まれていると感じた。


 『本』
 直木賞を受賞した東山彰良が寄稿している。映画「ロッキー」におけるスタローンの成功を今の自分に重ね、軽妙な文章を綴っている。そこで成功の条件と言うべき5つを出したことが面白い。「代償」「行動力」「感受性」「謙虚さ」「不退転の決意」…サクセスストーリーが持つ要素だという。多くの代償から不退転の決意に至るまでが、実によくつながっている。



 『図書』
 岩波書店のこのPR誌が800号だという。様々な作家が寄稿し、岩波という独特の文化の重みを感じさせられる。「この年月、日本人が置き去りにしてきたもの」と題した作家梨木香歩の文章は、次のように締めくくられている。「やはりそれは、ヒューマニズムとしか、いいようのないものだった」。ヒューマニズムという言葉自体が薄く、陰に追いやられている。


 『波』
 橘玲の「残酷すぎる真実」という連載は、身を入れて読んでいなかったが、今回はナニナニと思った。「無表情の写真からも内面をある程度予測できる」…「人は見た目が9割」というベストセラー新書もあるから、そんなに驚くことではないかもしれない。しかしこの確率はかなり高いとデータが示されている。「見かけ依存」というのは、かなり重い事実なのだ。


 「空海」を取り上げた本を発刊するという高村薫が、『波』表紙に次のような筆蹟とともに写真で映っている。「千二百年前の超人に会いにゆく」。手を合わせ拝んでいる所を正面から撮られている。人間は拝むときが邪念なく美しいと改めて思う。手を合わせる姿で感動的だったのは、篠山紀信が撮った片岡仁左衛門の顔であった。ずっと遠くを想う姿なのだ。

かなり好きだなこれ

2015年10月10日 | 読書
 【2015読了】96冊目 ★★★
 『え、なんでまた?』(宮藤官九郎  文春文庫)


 週刊文春連載のエッセイをまとめたもの。10年以上も続いているらしい。子育て日記的な文章から始まったということだが、確かに面白い。特に「娘がウソをつくんです」と始まる件は考えさせられる。虚言を言うことについて「親が作り話を生業にしているんだから説得力に欠ける」ともっともなことを書いている。


 確かに虚言とは一種の「創造力の芽」と言えるかもしれない。何か心に不満や傷を抱えているから…と理由を探している因果な商売の教師にとっては、一つの驚きだ。その「ウソ」が何のためなのかが問題であって、関心を惹くためであれば、それは芸人も脚本家も変わらないわけで、どんな影響があるかが問題か。


 ほとんど脱力系の文章だが、なかに真面目な?テーマもある。映画批評があり、川島雄三という映画監督の言を引用している。これはなかなか深いなあと感じた。批評を受けて「薔薇を見て、それが桜でないことを嗤われたところで、何とも返答の仕様がない」…これは様々な場面であることではないか。例えば教育も。


 「あまちゃん」前後のことも楽しい。またおっと思いだしたこともある。映画『ゲゲゲの女房』で水木しげる役をクドカンがやったのでした…そしてその女房役は…なんと今をときめく吹石一恵だったではありませんか。彼女の最初の印象はあの大河「新撰組」だったし、「永遠の0」にも出ていたし…と浮かんでくる。


 解説は岡田惠和。この脚本家は私と同年代ではないかと思うが、クドカンの登場に脅威を感じたという。そしてそれ以上に「かなり好きだなこれ、どうしよう」と混乱したという。同業でないので混乱はしないが似たように世代は違っても、面白い!と感じる自分がいて、その訳はたぶん「匂い」だなと見当をつけた。

発表会の季節が好きだ

2015年10月09日 | 雑記帳
 学校の、この季節が好きだ。何度か同じことを同じ時期に書いている気がする。勤務校によって実際少し幅はあるが、つまりは学習発表会前の半月から一週間前あたりを指す。当然ながら、体育館や音楽室、多目的スペースなどが学年に割り当てられ、学習の進度調整をしながら、発表会練習がクライマックスとなる。


 子どもたちの様子を見ることが楽しみなのはもちろんであり、ふだんの授業とは違った面が次々に出てきたりする。そしてもう一つは、担任の指導性が強く出ることの楽しみだ。「教え力」と称したのはかの斎藤孝教授だが、教師になりたい人の多くは、教えたがりであり、その本性(笑)をさらけ出すことになる。


 多くの場合、時間不足もあり「待つ」「引き出す」ことは抑え目で、直接的な指示、改善事項が口にされる。時には模範が示される。「こうでしょ」と言いながらのモデル提示、具体的ポイント指示がある。対象つまり児童らがそれらを飲み込み、表現できるかどうか…そこにふだんの指導がどうか強く関わってくる。


 一つ目は子供が教師の言うことを素直に聞くかどうか、大きく言えば信頼感があるかどうか。二つ目は、教師側の助言や指示に具体性があるかどうか。三つ目は個々にどのような評価言がかけられているかどうか…当然ながら、これらは密接に絡み合うことだ。学習発表会は、教師の力量がもろに現れる場でもある。


 人に見られる場をつくるために客観的な目を持つことを心がけたい。表現を作りだそうとする教師には、必須の姿勢のように思う。ともあれ、明日が発表会。予行では光る姿が眩しくいくつもシャッターをきった。そこに満足せず昨日今日と、もっともっとと励む姿が見られたことも嬉しい。きっといい発表会になる。

散漫な読書の秋の一日

2015年10月08日 | 雑記帳
 朝の3時台に目が覚めてしまい、本に手を伸ばす。ベッドサイドに置いてあるのは『教室のさびしい貴族たち』(松本キミ子 仮説社)。なんと三十年前に発刊されている著である。「キミ子方式」の本を読み実践を進めた若い頃を懐かしく思い出すが、それ以上に著者の生き方、仕事が興味深い。いつ読み終えられるか。


 結局、二度寝することなく、朝のメールチェックをした後に風呂に入る。何を持ち込もうかと考え書棚を見て、目についたのが『児童心理』誌。ちょっと気にかかる子が頭に思い浮かび、手にした特集は「『ふつうの子』の悩みに気づく」と「忙し過ぎる子どもたち」。少し前の号ではあるが、現状もあまり変わっていない。


 結局、風呂場読書は読み散らかしただけだったが、インタビューの金田一秀穂氏、北原照久氏が面白かった。特にブリキのおもちゃ博物館館長の北原氏は、幼年少年時代から何かこだわりをもってあんなコレクターになったと予想していたが、きっかけは「捨てられていたもの」だった点に価値観の深さを見た。


 学校に行ってから、必要があり一冊の本を開いた。『学校がよくわかる本Ⅲ(授業編)』(大西貞憲  PLANEXUS)「学校を応援する人のための」と書かれてあるように、保護者・一般向けなのだが、以前読んだときにとても納得できたので再読しようと決めていた。授業づくりを考えるうえで大きな示唆に富む本だ。


 家へ帰り夕食前の風呂に持ち込んでいる文庫は、クドカンのエッセイ。『え、なんでまた?』(宮藤官九郎 文春文庫)である。一種の脱力モノでのんびり読むには最適だ。溢れかえる言葉の洪水のなかで、何を心に引っかけるかは人様々だが、クドカンのそれにはとても共感する。セリフつくりの秘密が見え隠れする。

セミナー案内~一足早く告知

2015年10月07日 | 教育ノート
 出来上がってはいたのだが、雑事に紛れてまだ関係者や近隣校には配布していない。

 この週末には準備したい。

 一足早く、このブログに載せてしまえ、ということで

 ご案内します。

 申込は、h-numazawa★nifty.comへ
(★を@に替えて)
 メールでも可である。
 氏名・所属と、懇親会の参加有無を記して 


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 学力向上を目指した取組みが成果を挙げている反面、授業に対する考え方や諸実践が柔軟さを失っている印象も受けます。本校では授業づくりを幅広くとらえ、多様な実践に触れながら、各々の授業力向上を図る目的で、外部から著名な先生方をお招きした研修会を継続しています。
 以下の概要をお読みになり、参加してみたいという方がおりましたら、ご連絡ください。
 一緒に学びあいましょう。


1 期日  11月20日(金)

2 講師  佐藤 正寿 先生(岩手県・奥州市立常盤小学校副校長)

      菅野 宣衛 先生(秋田大学附属小学校教諭・研究主任)

3 テーマ  授業づくりの本質を問う

4 内容   講師による児童対象の授業・研究協議会

5 日程   
 13:20~14:05 特別授業1(6年生国語)
 14:15~15:00 特別授業2(6年生社会)
  15:20~16:40 研究協議会

◇お願い
  全日程参加を原則とします。
  参観者は自己の「学び」を簡単な感想カードへ書いて出していただけるようお願いします。
  後日集約して配布いたします。

◇参加 申込等
以下の用紙に記入し、期日一週間前までFAX(0183-62-1702)で送付ください。
  西馬音内小学校・沼澤晴夫宛
  なお、会終了後18:00より湯沢市内で講師を囲んでの懇親会も予定しています。

軽くなったGマーク帽を

2015年10月06日 | 雑記帳
 朝一番に登校してくる班は、私の実家のある地区の子どもたちだ。最後尾の男の子の帽子がジャイアンツマークであることに気づいた。ほとんどの男子がジャイアンツの野球帽だった時代に育った私としては、妙に心が和む。少し気になって登校してくる全員の帽子を見ていたが、やはりというか、その子一人だった。


 女子も含めて全員が何かしらの帽子をかぶって登校する。改めて見ると、様々な種類があるものだ。当然ながら、まずは「野球」帽とは言えなくなっている。他のスポーツ、またスポーツに限らないファッション系のデザインなど多様だ。野球とわかるのは、スポ少所属者と東北の某球団から寄贈の帽子を使っている子だ。


 学校に勤め始めた頃は、西武ライオンズが勢力を伸ばしていてあの青色が妙に目立った記憶がある。その後、結構様々なチームの帽子が出てきたように思う。それから野球人気に陰りが見えて、また帽子の種類も広がりを見せた。何であれ、男の子だったら小学時代にかぶった愛着のある帽子が一つ二つは欲しいなあ。


 ジャイアンツマークが目に飛び込んできたのは、例の野球賭博報道と無関係とは言えない。ジャイアンツファンにならざるを得なかった、地方の素直な(笑)少年たちが、今、中高年・老年となって今回の件をどう感じているのか。いろいろな醜態をさらしてきた球団なので、失望もそこそこか。それより、個を見るか。


 件の選手にとって自身の不調や衰えが理由だったことは想像できる。おそらく競技生活一筋に進みながら、賭ける対象を失った者の行く末の一つかもしれない。帽子一つとっても世界は単純でなくなっているのに、人間が陥るパターンは逃れようもなく存在する。軽くなったジャイアンツの帽子を押える心も弱かった。

それはコミュニケーションですか

2015年10月05日 | 雑記帳
 『図書』の今月号の徳永進の連載に読み入ってしまった。

 「コミュニケーションとディスコミュニケーション」と題されたその文章は、学生時代にあの鶴見俊輔ゼミで学んだことを反芻しながら、現在の医療と結びつけている。

 鶴見ゼミで学んだ「コミュニケーション」とは、AとBが単に伝達し合うということではなく、もっと複雑に絡み合うものだという。
 著者が鶴見の言葉を自分なりにまとめた文章の最後にはこう書かれてある。

 それぞれが紆余曲折を経て、AはA´にBはB´に変わる。変わるということがコミュニケーションの大切なところですね。


 私たちは、コミュニケーションツール(道具、方法)を重視していて、中身を置き去りにしているのではないか。
 ツールの重要さを軽視するわけではないが、目的は何なのかを忘れ去った一方的な伝えになっていないか。

 著者は、医療現場でいわゆるインフォームドコンセントが徹底するようになったことで、「逆に良さが消えていくのを感じた」と書いている。
 そして、臨床場面における「形式」について警鐘を鳴らして、こう断言する。

 形式はしばしばコミュニケーションと乖離する



 これは教育現場でも心したい警句である。

 「授業はコミュニケーション」と言ったのはかの宇佐美寛氏であった。
 その観点に真っ向から反対する人はいないだろう。しかし、そこに児童A→A´というねらいがあり数々の働きかけがあるとしても、その場にいる一人である教師Bはどうなのかという視点が欠落していないか。

 アクティブ・ラーニングなどという言葉だけが先行して、結局はパターン化が推進されるのでは困る。
 現実の授業空間において教師自身がコミュニケーションを実感できていないとすれば、それは少しお笑い草ではないか。
 そんな授業で育った力の脆弱さなど、自ずと知れることだろう。

樹木に迎えられた頃

2015年10月04日 | 雑記帳
 NHK連ドラ『あさが来た』は、主人公が木の枝に腰かけている場面が象徴的だ。思えば、子役の鈴木梨央はあの『八重の桜』でも主人公の幼少時代を演じていて、そこでも木に登り、腰かけて街道を眺めていたのではなかったか。この連ドラでは、さらに主役が今の波瑠を登場させる回も木登りの場面を使っている。


 わかりやすいと言えば実にわかりやすい。主人公のおてんばな面を描き、大方の周囲からひんしゅくを買うが、そのことを温かく見守る人物も傍にいることを必ず入れ込む。まあ定番の、絶好の舞台装置というべきか。当然ながら、木の上から主人公は、遠くを、そして未来を見渡している。表情はいつも爽快である。


 昔は木登りをよくしたものだ…などとは言えないなあ。まあ周りにそれに適した樹木がなかった、だいたい雪国の木は木登りに適したものは限られるのではないか…などと考えていたら、幼い頃、実家の隣に桜の老木があったことを思い出した。その木には登って遊んでいたなあ。花が散った後、小さい桜桃も生った。


 当時隣家に住んでいたN家は三人兄妹で、一番上が私より二歳上のSちゃん、そして同い年のTちゃん、一つ年下だったK子ちゃん。Tちゃん、K子ちゃんとは揃ってよく遊んだ。自分の家には大きくない柿の木しかなかったので、主戦場はやはりその桜。のんびり腰かけた記憶はないが、枝に立つ姿はイメージできる。


 今、木登りすると言えば、何か意図的に作られた場面だろうか。それはそれで構わないが、ごつごつとした幹にしがみつき、枝をつかみ、足で踏ん張り、じりじりと登る動きは、自然そのものとの対話のような気がして、人工物では代えられない。木登りは克服的遊戯とも言えるが、樹木に迎えられるイメージもある。

野の花の美しさ、つよさ

2015年10月03日 | 読書
 【2015読了】95冊目 ★★★
 『野の花診療所まえ』(徳永 進  講談社)

 岩波書店の『図書』で著者の連載を読んでいる。言葉に対する感性に共感することが多く楽しみにしているが、この本は別の意味で刺激的だった。「自殺は、いい死の一つだとぼくは思う」と医師が書いた文章を今まで読んだことはない。そう考える人がいても不思議ではないが、あっさりと公言した文章にまず驚いた。


 「死」に対する向き合い方の問題であることはわかる。達観と呼んでいいのだろうか。死の現場を数多く踏んだからジタバタしないだけだろうか。悲しみの感情が薄かったり、醒めた感情しか持てなかったりするわけではない。数多くのキャリアによって、幸せの感情がどう流れていくかを見極めてきたからだろうか。


 「言葉ってすごい」という章のエッセイは、なかなか笑える。「がん」という病名を、「濁音抜きで、半濁音くらいで呼んだ方が暗くなく、明るく希望が持てるのではないか」と語る。そして「ポパ」と提案する。「肺ポパ」「乳ポパ」「大腸ポパ」…確かに気軽に手術を受けられそうな気がするし、言い合う表情も明るいが…。


 痴呆の方たちが「帰る」という言葉を頻繁に喋ることが書かれてあった。身内にもそうしたことがあったと思い出した。この「帰る」は実に意味深い気がする。著者は結局「帰郷」と同じ感覚と語りつつ、「帰る花」と表現する。「老いて死が近くなる時、人の心に帰る花が一斉に咲いてくる」…その根はどこにあるか。


 大病院を辞め診療所を開いた著者。あとがきで「組織が育っていないと単なる理想で終わってしまう」と言いつつ、「組織があるために認められず否定され終わる」存在に目を配っている。「野の花」と名づけた診療所は、単なる独自性だけでなく「傷ついていても、いやだからこそ美しい」という精神に支えられている。

補助輪という比喩から考える

2015年10月02日 | 読書
 【2015読了】94冊目 ★★
 S19『教師になるということ』(池田 修  ひまわり社)


 現在は学陽書房から発刊されているこの本を、教師志望の若い知り合いにあげようと思い、その前にぺらぺらと再読してみた。改めて、さすが池田先生だなと感じることがいくつかある。高校生向けに話したことをもとに書かれたこの本。そのわかりやすさの中に本質がくっきりと見えるようだ。たとえ話も面白い。


 校種の違いを「自転車乗って進む」を例にして、こんなふうに喩える。「子どもが自分で進もうとする時、その補助輪を付けたり、付け方を教えるのが小学校の先生の仕事です」。そして「中学校の先生は、この補助輪を外す仕事です」。さらに「高校の先生は、自転車と自分の関係をきちんと理解させるようにします」


 教育を「自転車乗りの指導、支援」に置き換える発想は、いろいろと考えさせられる。幼児の頃は誰かに乗せてもらったり、三輪車であったり、いわば安定した乗り物体験をしていて、学齢期から自転車に一人で乗るための準備、練習をするということだ。補助輪という比喩は、進むため、転ばぬための役割を担う。


 最近、実際の自転車乗りの指導手順ではペダルを外して、足がつく高さで乗り慣れていく方法もあるようだ。しかし、教育では「ペダルを踏んで進んでいく」ということがとても大切だ。つまり「回転」を「自力」で行うこと。負荷のかかる経験が進む力を育てるのだと思う。補助輪は、補助でありながら負荷にもなる。


 それは「課題」という名前で、子どもたちに示されるものだ。適切でないと進めなかったり、全然負荷がかからなかったりする。さらに「付け方」となれば、それは課題設定の仕方を身に付けさせると言っていい。「この補助輪を付けなさい」から「自分に合う補助輪を選び、付けてみなさい」…学習はそんなふうに進む。