『図書』の今月号の徳永進の連載に読み入ってしまった。
「コミュニケーションとディスコミュニケーション」と題されたその文章は、学生時代にあの鶴見俊輔ゼミで学んだことを反芻しながら、現在の医療と結びつけている。
鶴見ゼミで学んだ「コミュニケーション」とは、AとBが単に伝達し合うということではなく、もっと複雑に絡み合うものだという。
著者が鶴見の言葉を自分なりにまとめた文章の最後にはこう書かれてある。
それぞれが紆余曲折を経て、AはA´にBはB´に変わる。変わるということがコミュニケーションの大切なところですね。
私たちは、コミュニケーションツール(道具、方法)を重視していて、中身を置き去りにしているのではないか。
ツールの重要さを軽視するわけではないが、目的は何なのかを忘れ去った一方的な伝えになっていないか。
著者は、医療現場でいわゆるインフォームドコンセントが徹底するようになったことで、「逆に良さが消えていくのを感じた」と書いている。
そして、臨床場面における「形式」について警鐘を鳴らして、こう断言する。
形式はしばしばコミュニケーションと乖離する
これは教育現場でも心したい警句である。
「授業はコミュニケーション」と言ったのはかの宇佐美寛氏であった。
その観点に真っ向から反対する人はいないだろう。しかし、そこに児童A→A´というねらいがあり数々の働きかけがあるとしても、その場にいる一人である教師Bはどうなのかという視点が欠落していないか。
アクティブ・ラーニングなどという言葉だけが先行して、結局はパターン化が推進されるのでは困る。
現実の授業空間において教師自身がコミュニケーションを実感できていないとすれば、それは少しお笑い草ではないか。
そんな授業で育った力の脆弱さなど、自ずと知れることだろう。
「コミュニケーションとディスコミュニケーション」と題されたその文章は、学生時代にあの鶴見俊輔ゼミで学んだことを反芻しながら、現在の医療と結びつけている。
鶴見ゼミで学んだ「コミュニケーション」とは、AとBが単に伝達し合うということではなく、もっと複雑に絡み合うものだという。
著者が鶴見の言葉を自分なりにまとめた文章の最後にはこう書かれてある。
それぞれが紆余曲折を経て、AはA´にBはB´に変わる。変わるということがコミュニケーションの大切なところですね。
私たちは、コミュニケーションツール(道具、方法)を重視していて、中身を置き去りにしているのではないか。
ツールの重要さを軽視するわけではないが、目的は何なのかを忘れ去った一方的な伝えになっていないか。
著者は、医療現場でいわゆるインフォームドコンセントが徹底するようになったことで、「逆に良さが消えていくのを感じた」と書いている。
そして、臨床場面における「形式」について警鐘を鳴らして、こう断言する。
形式はしばしばコミュニケーションと乖離する
これは教育現場でも心したい警句である。
「授業はコミュニケーション」と言ったのはかの宇佐美寛氏であった。
その観点に真っ向から反対する人はいないだろう。しかし、そこに児童A→A´というねらいがあり数々の働きかけがあるとしても、その場にいる一人である教師Bはどうなのかという視点が欠落していないか。
アクティブ・ラーニングなどという言葉だけが先行して、結局はパターン化が推進されるのでは困る。
現実の授業空間において教師自身がコミュニケーションを実感できていないとすれば、それは少しお笑い草ではないか。
そんな授業で育った力の脆弱さなど、自ずと知れることだろう。