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いっそ意志のある駒に

2015年10月17日 | 雑記帳
 今求められる教育を「魚を与えるのではなく、魚の釣り方、つかまえ方を教える」といった比喩を使って話したのは、本県の根岸前教育長だった。先日、送付されてきた冊子に、梶田叡一奈良学園大学学長はド・シャルムという学者の論を引用して「有能な『駒』でなく、『指し手』でありたい」という論を載せている。


 「魚」と「釣り方」とは、知識や技能そのものと、その獲得の仕方いわば学び方とを対比させている。ネット等の発達により、知識自体は簡単に手に入れられるようになった。その現実を踏まえながら、学び方を身につけることこそ生涯にわたって役立つ、学び続ける意欲、態度こそ肝心だという論にも納得はいく。


 「駒」と「指し手」の対比は、単純に自律的・他律的とも言い換えられる。またド・シャルムの論によると、もっと情意面が強調されているようだ。曰く「自分の運命を支配している」「運命の意図は他者ににぎられていて」、「消極的・楽観的」と「消極的・自己防衛的」のように。つまり「主体性」のレベルである。


 社会的な観点に立つと、「駒」と呼べるものは機械化の進展によって多く出現したし、情報化の進行によって量的に爆発的に増え、質も多様化している。従って人が「有能な駒」であることは、もはや機械や情報の操作処理能力のレベルの高さを指すだけと言っていい。身体的な要素や生活上の知恵は追いやられている。


 梶田学長は「『指し手』としての資質・能力のことをもっと考えてみる必要」を説く。確かに情報化、グローバル化、少子高齢化社会で生き抜く力と言っていい。しかし、この指摘は将来においても求められる人材に「駒」の要素が強くあることを物語っている。いっそ、意志のある駒に徹するというのは時代錯誤か。