すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

いかがわしいのはお前だ

2015年10月21日 | 読書
 先日読んだ『成長から成熟へ』という新書の中に、どうにも気になる表現があり、頭の中に残っている。改めて引用しながら、考えてみよう。

 著者は、「いかがわしい動物」などはいないということを前提に、こんなふうに書いている。

★たったひとつだけ、人間というのはかなりいかがわしい生き物だという気がする。


 なるほど。「如何わしい」の意味は「正体がはっきりしない」「信用できない」と限定すれば、やはり動物の中では人間だけだろう。

 そして、文章はこう続く。

★それはなぜだろうと考えてみると、やはり「ことば」というものを、それも複雑なシンボル体系としての「ことば」というものを、人間だけが持ってしまったからではないかと思うのです。


 「ことば」が原因だ。
 ことばは事実を伝えるが、嘘や誇張も伝える。
 ことばは強い願いや思いも表せるが、思ったこと以外のことも容易く表現できる。
 これほどいかがわしいものは確かにない。
 しかし、それを捨てることなど到底できない。

★「不言実行」とか「沈黙は金」とかいうのも、ことばを使わなければ言えないわけで、つまり、ことばがあるから人間はいろいろ言ったり考えたりすることができる。


 ことばの存在がヒトを人間にしているということは古くから言われてきた。そう考えると、人間の歴史はすべていかがわしい歴史と言い換えることができる。
 いかがわしいという言葉の持つ響きはなんとなく認めたくないものだが、現実は、巨視的にも微視的にも、そのサイクルで回っていると言っていいだろう。

 つまり、ある人のいかがわしさによって戦いは起こり、連鎖していく。
 つまり、今日の仕事について自己評価をしようとすると、自らの気持ちにつきまとういかがわしさから脱せない。

 ことばを使えば、全てはいかがわしいという範疇に入ってしまうから、口を閉じてしまえばいいが、ではどこへ向かっていくというと、それは溜まってしまう一方だ。

 だから、こうして毎日いかがわしいことを言っているのだ。

 開き直りか!

問題表現を排して言葉を磨く

2015年10月20日 | 読書
 【2015読了】102冊目 ★★
 『言葉にして伝える技術 ~ソムリエの表現力』(田崎真也 祥伝社新書)


 テレビのグルメレポーターにとって一番大事なのは、食べるとき、食べた後の表情だと思う。専門?の人たちはなるほどというアクションがあるし、ゲストとして食べる芸能人には、美味しそうに見えない場合がよくある。出てくる言葉は…というと、なんだかみんな似ている気がする。コメントで唸ったときはない。


 この有名なソムリエだったら、さぞかし独創的な表現をすることが予想される。しかし、それを聴きとるためには結構な知識、経験がないと駄目だろう。読み進むにつれてその思いが強くなったが、そこはさておき「表現」に関して教えられることが多かった。著者が「問題表現」とするのは、次の三つのパターンだ。


 1 実際には味わいを伝えていない常套的表現
 2 先入観でおいしいと思い込んでいる表現
 3 日本的なマイナス思考による表現


 「こくがある」という表現を例にして、「はっきりと共有できる説明がなされていないのが現状」とばっさりと斬り捨てる。「こく」が辞書で複数の意味を持つ以上、その一言では済まされないのは明白だが、私たちは実際よく使う。その表現だけで、それ以上の追究をしなくても済むというような気持になっていないか。


 「手作り」「厳選素材」「地元の素材」、または「秘伝の~」「昔ながらの~」そうした表現は即「おいしい」に結びつかない。しかし私たちはそうした経験や権威のようなものに惑わされやすい。日常的に、料理番組そして広告にはこの手の表現がいかに多いか、これはもはや調べるまでもなく、あふれかえっている。


 「日本的なマイナス思考」は実に考えさせられる。例として「クセがなくて、おいしい」を挙げているが、この背景をこう語る。「根底にあるのは、学校などでの採点方法である『減点法』の影響ではないか」…この分析はなるほどである。クセがないことも一つの価値に違いないが、それはやはり消極的な観点だろう。


 こう考えると「常套的」「先入観」「マイナス思考」による表現は、料理や酒の味について表す際ばかりでなく、私たちの生活や仕事など多くの場における言葉遣いに表れていることに気づく。著者が表現を磨くためにしてきた、言語化のための手法、五感を鍛えるための提案など、間違いなく他の分野でも活かせる。

広告に目を凝らす心構え

2015年10月19日 | 読書
 【2015読了】101冊目 ★★★
 『成長から成熟へ ~さよなら経済大国』(天野祐吉 集英社新書)


 著者が創刊した『広告批評』という雑誌を読むほどではなかったが、なんとなく広告には目がいく性分だった。新聞広告やテレビCMにも人並み以上に関心を持っていると思う。たぶん言葉、映像の効果への興味から芽生えたような気がする。広告が溢れかえる時代の社会風潮、世相史などは考えていくと実に面白い。


 著者はこんなふうに書く。「人生は広告を模倣する」。広告とはいわば商品の購買意欲をあおるためにあるわけだから、当然そんなふうに誘導されるとすれば「模倣」になっていくに違いない。それは物品の所有から、それも含めたライフスタイルの選択まで拡がっていく。生活と広告がリンクして人の流れができる。


 月曜の新聞折込広告は、ほとんどがパチンコ産業。火曜からはスーパーが目立つ。金曜は多種類になり飲食業などもちらほら。土曜は大型家電店が必ず二つ入る。隣市の国道交差点にある大看板は、昔はホテルなどが目立ったが、今は地元の有名うどん屋の他に、解体業者、葬儀場である。ここには確かに時代がある。


 「ほしいものが、ほしいわ」という西武の名コピーから三十年近く経った。もうその時点で大量生産、大量消費の限界は見えていて、何かしらの工夫がされつつ「もの」が作りだされた。しかしそれは「計画的廃品化」を繰り返す多くの企業側の手法が巧みだったと言える。自分が何を買ってきたか振り返ればわかる。


 「成長病」という指摘も数多くなされてきた。政治の実権者が「病」と自覚しないところは怖いが、せめて自ら対策を練ることは忘れてはいけない。その時、「広告」が訴えること、囁きかけることに目や耳を凝らすこと。これが一番直接的で日常的な心構えである。「再生」とは別の貌と精神を持って立ち上がることだ。

語りたくなることをつくる

2015年10月18日 | 読書
 【2015読了】100冊目 ★★★
 『実践!仕事論』(小山薫堂・唐池恒二 講談社)


 放送作家という枠にはまらない仕事をしている小山薫堂、そして「ななつ星」の成功で一躍脚光を浴びたJR九州の会長である唐池恒二。この二人の対談を編集して本に仕立てた。最近、こうした形をとる出版物が増えている気がする。対談そのまま?よりコンパクトに考えが伝わりやすい。その構成も一つの主張だ。

 
 「現場で成功した二人がはじめて語る『地方・人・幸福』」という副題がある。はじめてかどうかは定かではないが、いわゆる稀代のアイデアマンのぶつかり合いという様相は魅力的だ。そこには自ずと共通点が浮かび上がるし、挙げられた三つのキーワード「地方・人・幸福」そのものが、つながっている気がする。


 (唐池)
★組織の活性化の救世主は、内弁慶であるはずがなく、「よそ者、馬鹿者、若者」と見たり。「異端を尊ぶ」くらいの度量を示すべし。

 地方再生という観点で、成功を収めている自治体を見るとき、そこにはきっと「異端」がいるはずだ。そして、その異端を認めるリーダーがいる、もしくはその異端自身をリーダーに仕立てるフォロワ―がいるに違いない。その事実に目を凝らそう。意識変革なしに活性化や再生は計れないことを、端的に言っている。


 (小山)
★「防災」という言葉自体が人間の奢り。地球が危ないのではなく、ただ人間が危ないだけ。

 結局、危機を回避したいのは人間である。それはいくら環境保護を強く叫んだところで変わらない。また例として挙げられている、治水と集落、国の形成ということは実に興味深い。一人の力ではどうしようもないから組織ができる。しかし同時にそれでも自然に対抗できるものではないと踏まえて、集まるべきだ。


 達人、カリスマ、成功者…様々に形容できる二人の話から、重なり合う精神や行動をピックアップしてみたら、「人に語りたくなる」という言葉が浮かんだ。自らが体験した、関わったことを、他者に知らせたいと思えることを創りだそうとしている。それは自慢話とは質の違う、素晴らしさを分かち合おうとする心だ。

いっそ意志のある駒に

2015年10月17日 | 雑記帳
 今求められる教育を「魚を与えるのではなく、魚の釣り方、つかまえ方を教える」といった比喩を使って話したのは、本県の根岸前教育長だった。先日、送付されてきた冊子に、梶田叡一奈良学園大学学長はド・シャルムという学者の論を引用して「有能な『駒』でなく、『指し手』でありたい」という論を載せている。


 「魚」と「釣り方」とは、知識や技能そのものと、その獲得の仕方いわば学び方とを対比させている。ネット等の発達により、知識自体は簡単に手に入れられるようになった。その現実を踏まえながら、学び方を身につけることこそ生涯にわたって役立つ、学び続ける意欲、態度こそ肝心だという論にも納得はいく。


 「駒」と「指し手」の対比は、単純に自律的・他律的とも言い換えられる。またド・シャルムの論によると、もっと情意面が強調されているようだ。曰く「自分の運命を支配している」「運命の意図は他者ににぎられていて」、「消極的・楽観的」と「消極的・自己防衛的」のように。つまり「主体性」のレベルである。


 社会的な観点に立つと、「駒」と呼べるものは機械化の進展によって多く出現したし、情報化の進行によって量的に爆発的に増え、質も多様化している。従って人が「有能な駒」であることは、もはや機械や情報の操作処理能力のレベルの高さを指すだけと言っていい。身体的な要素や生活上の知恵は追いやられている。


 梶田学長は「『指し手』としての資質・能力のことをもっと考えてみる必要」を説く。確かに情報化、グローバル化、少子高齢化社会で生き抜く力と言っていい。しかし、この指摘は将来においても求められる人材に「駒」の要素が強くあることを物語っている。いっそ、意志のある駒に徹するというのは時代錯誤か。

毎日ちょっとずつ磨く

2015年10月16日 | 読書
 【2015読了】99冊目 ★★
 『コチャレ!』(上大岡トメ 講談社)


 『キッパリ』や『のう玉』も読んでいるので、結構この人を好きなんだなと改めて思う。単純明快さと許容範囲の広さが魅力かな。さて、「コチャレ」とは何ぞや。それは、帯にしっかり書かれている。「すぐできる『ちっちゃいチャレンジ』のこと」。「失敗してもリスクが少なく、成功した場合は、ごきげんになれる」


 いかにも著者の出しそうなアイデアだなと思いつつ、ページをめくる。Facebookの中から108を選んで章立てしたようである。第一章「今からここから」、いの一番は「歩幅をいつもより7センチ広げて歩いてみる」。なるほど確かに小さいチャレンジだ、次は「優先順位をつけよう!ときにはあきらめも必要」


 こんな調子で、まあ「気分転換」「ストレス解消」「健康保持」「うつ防止(笑)」のための、一言処方箋が続いている。いったいこれは「チャレンジ」と呼べるものか。もちろん抑えめにした「コ」がポイントなのだが、そして「コチャレ」というネーミングのよさは十分感じるのだが、大半のことはブラッシュアップだ。


 「15光るものを磨こう。気分も明るくなるよ。」よくある気分転換法である。説明の終わりの「自分のココロも、ついでに磨いちゃえっ!」という力強い一言がテーマと言ってよい。「33サイフを整理しよう」といった具体的な行動も、「52なんでも優劣をつけない」という思考指針も、心に溜まったゴミの消去なのだ。


 巻末に脳研究者池谷裕二との対談がある。共著もある二人のこの組み合わせは編集の妙だ。池谷氏の「コチャレはスモールステップ」という解説より心に響いた専門用語「セルフハンディキャッピング」。失敗に備えて保険をかけようとする心理らしい。実力のなさを自覚しきれない者の悲しい烙印…言い当てられた。

所さんのキニナルキ

2015年10月15日 | 雑記帳
 高田純次、関根勤、そして所ジョージと、まあこのあたりが脱力系御三家と言ってもいいかもしれない。

 しかし、ふだんは買わない月刊誌の冒頭に載っていた所ジョージのインタビューは、単に脱力系と称すことのできない、含蓄に溢れた記事だった。


★皆さん、結果や正解を最短で得ることに支配されているよね。(略)私は、物事には当たり外れがあるから面白いと思いますよ。

 時々忘れそうになる、結果を楽しむのではなく、楽しめるのは過程なのだということ。


★気遣いを高いレベルで考えなさんな。気遣いを「自分らしくない行為」だと思うから、負担に感じるんじゃないの。

 気遣いはごく当たり前のことで、優先順位の上位に位置するものではない。気張らずどんどん気遣いすればいい。そんなところでつまずくな。


★便利や流行りに頼らなければ、仕事でも遊びでも「自分の型」ができてくるのよ。それだけで、お金に関係なく楽しめる人生も手に入っちゃう。

 自分の感覚を信じることが根本にある。没頭してみるという心の余裕が必要だ。


★まずは今日を楽しく過ごそうというスタンスに変えた。それが一番キレイな人生じゃないかな。

 「キレイな人生」か。
 確かに複雑なものの多くはキレイには見えない。
 もしキレイに見えるとしたら、それは計算しつくされた複雑さとでも言うべきか。
 多くの人は、少なくとも自分は、そこまで行けないから、シンプルを求めるべきと痛感する。

キミ子方式という生き方

2015年10月14日 | 読書
 【2015読了】98冊目 ★★
 『教室のさびしい貴族たち』(松本キミ子 仮説社)


 「キミ子方式」は自分の拙い実践の中でも思い出深い。きっと写真を整理すれば、もやしやらバケツやら空やら自画像やら、多くの作品に出合えるだろう。三原色と白だけを使う、植物は育つように描く、紙が足りなくなったら足して続ける…後に「酒井式」を学んだ時もそう感じたように、技術が一種の思想なのだ。


 この本の存在は以前から知っていた。産休補充の美術教師を続けていた著者が記した、さびしい子どもたちとの出会い。それは自らの人生を赤裸々に語ることであり、過剰なほどに人間の弱さや醜さと対峙することだった。描かれているのは1980年前後の東京の学校の一断面ではあるが、おそらく事態は今もある。


 読了して強く感じたのは、著者の生き方そのものが「キミ子方式」であること。つまり、「輪郭をなぞらない」「部分を見てつなげていく」「視覚だけでなく、触覚を大切にする」手法といってもいい。効率は悪いが、全体が出来上がるとき、見事に明確な像を結ぶ。質感がよく伝わり、同時に愛着が持てるようになるのだ。


 言い方を換えれば、徹底した感覚志向。遠い未来や大きな存在より、目の前の個、一つの部分、出来事、表情に直接働きかけるということ。もちろん、それらを丹念に掘ったり、少し俯瞰的に見つめ直したりはしている。そうでなければ著書という形は成さない。キミ子方式としての生き方が伝わる本になっている。

荒唐無稽な必読書

2015年10月13日 | 読書
 【2015読了】97冊目 ★★
 『民王』(池井戸潤 文春文庫)


 夏に入る頃、テレ朝の連続ドラマが放映される前に書店では平積みされていた。ドラマを一応予約しておいたので、その前に読みたいと思いつつも、どうしたわけか10月までずれ込んでしまった。文庫のカバーや新聞番組欄で、主役が誰かは知っていたので、どうしてもそのイメージがついてしまう。これは困った。


 映像化後の読書はよくあるが、この小説は少し面倒だ。俗にいう「入れ替わり」モノ。しかも主人公はもちろん、他の人物にも数組それが発生する。どんな姿を描いて読み進めるか、戸惑ってしまった。もちろんストーリーは面白く工夫されていて、エンターテイメントとしては上質だ。ただ混乱したイメージが残った。


 この作品は単なる風刺小説ではない。しかしそういう要素も十分に楽しめる。政治権力の中枢にいる人間がどんなことを考えながら行動するか、まあステレオタイプ的な点も見られるが、人間模様の機微もあり、読んでいて退屈しない。また政治に絡んでくる銀行、農業、薬事や医療の問題、取り上げ方もタイムリーだ。


 解説は書評家の村上貴史。掲げたタイトルは「有権者必読の書」である。もちろん投票行動のための直接的な指針が得られるわけではないが、ただ目の前に繰り広げられる政治的なショーの見方とは結びつくだろう。「現実の政治家たちがなんだかんだ理由をつけて目を背けている正論」がはっきり示されているからだ。


 数多の政治家にも、きっと初心はあった。それが様々な過程を経て、厚く現実という塗料を塗りこめられて、ほんど見えなくなっている。それを打開できるとすれば、おそらく傍から見れば荒唐無稽な物語なのかもしれない。この本は、入れ替えという手法で、立場を換えてみる思考を強くアピールした小説でもある。

「のんびり」を読んで学ぶ

2015年10月12日 | 読書
 愛読誌『のんびり』の14号は、版画家勝平得之の特集である。秋田県民であれば、仮に勝平得之の名前は知らなくとも「ああ、この画は見たことがある」と誰しも思う。それだけ目にする機会が多く、また特徴的な画と言えよう。正直、今まで関心はなかったが、今回の特集を読み、一つ深く見られるような気がする。


 この特集のキーワードは「農民美術」。第一章が「農民美術ってなんだ?」からスタートする。出だしは秋田ではなく長野県上田市から始まる。詳しい経緯は省くが、農民美術とは「副業的な産業」「農閑期を利用して、趣味と利益を得つつ」という文章に表れる工芸的な要素のある、いわば「土臭い美術」である。


 その歴史性や価値についてほとんどのページが割かれている。なかでも今さらながらに驚いたのは、昭和9年という時代に、勝平を評価した人が「ローカルカラー」という言葉を使っていること。中央と地方という構図はいつの時代にもあり、地方の人間は、相対的な価値に惑わされないことにこそ、自分を見出せる。


 身体感覚を大事にするという観点で「農民美術」を考えると、当然「土」「水」「木」「田」「稲」…というもっとも人間に近い自然と組むことになる。それゆえごつごつしていて、直接的な感情アピールができるかもしれない。それは洗練とは対極をなす。今の時代、売り物に仕立てるとすれば、強調点はそこか。


 今号の記事に「ジュンサイ」を扱ったページがある。ここは結構読ませた。「流しジュンサイ」を目標に取材を始めて、様々な加工料理を食べたり、ジュンサイ摘みをしたり…。摘み取りの場所で念願の流しジュンサイで盛り上がっている時、ひたすらに沼で摘み取っている3人の地元女性に、深い存在感を見る。