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桜と絵本と豆乳と

子規の笑いを読む

2015年10月28日 | 読書
 【2015読了】105冊目 ★★
 『笑う子規』(天野祐吉・編 南伸坊・絵  ちくま文庫)


(秋)柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 あまりに有名なこの句を、いったいどれほど理解しているかと問われれば、ううむ半分ぐらいと答えるだろう。季語や話者の大雑把な位置、そして必然が内包されている偶然とでも言うべき一瞬のことを、頭ではわかっていても感動を掘り下げれるかと言えば、あまりに少ない知識、頼りない経験。その程度の読みだ。


(新年)蒲団から首出せば年の明けて居る

 家族と迎えた年明けであっても、一人の年明けであっても、少し「痛さ」の感じる句である。「笑う子規」とすれば、その状況を俯瞰的に見ているということか。「蒲団」が子規の人生のなかに占める位置は大きいだろう。そこから全て脱け出すのではなく、「首出せば」である。その新年もそう迎えざるを得ない年だった。


(春)春風や象引いて行く町の中

 見世物としての象は、人々に大きさという驚きだけでなく、ある面の安らぎのようなものを感じさせてくれる。それはその動作や鼻の特徴から来るのだろうか。足の運びの緩やかさや大きな耳の揺れ、そして鼻がとるリズムに一番合う季節は春なのだと思う。ほのかに暖かい空気の中で人々の華やいだ声が聴こえる。


(夏)えらい人になったそうなと夕涼

 誰と語りあっているのか。「えらい人」とは『坂の上の雲』のあの人を指しているのか。特定の場面があって出来上がった句ではあるが、ある意味では一般庶民が話している縁側なり、庭先なりが想像できる。今日の暑さは万人に共通するが、そこから大きく飛躍した人に想いをはせる。まだセミの鳴き声が聞こえる夕刻。


(冬)人間を笑ふが如し年の暮

 人の心に慌ただしさの粒や泡をまくような時間的な表現が「年の暮」である。今年も、また今年も…と思ってしまうこともある意味こっけいである。災害などを考えると自然にしっぺ返しされている人間様だが、何事もスピード化しようと精いっぱい頑張る人間もまた、時間にしっぺ返しされているのかもしれない。