すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ピンナップして考え事

2018年10月21日 | 雑記帳
 その昔、松下幸之助が起こしたナショナル。家電製品を扱う系列店「ナショナルショップ」は、ピーク時には約5万店あったという。現在の全国にあるコンビニ総数も5万数千店なので、ちょっと驚く。半世紀の違いはあるが、家電の浸透と小売りの変化が似たペースで進んだことだ。


 BS『アーススキャナー~宙からわかる奇景の謎』という番組を観た。Googleearthのようにある特定の場所に迫っていく導入で、映し出されたのは「船の墓場」。廃船の解体現場である。Bangladeshのその海岸は他国の撮影が許されない。正直、思いが及ばなかった世界に考え込む。



 ランキングブームは依然続いている。かの「魅力度ランキング」では1位が北海道、最下位が茨城県もはや固定された印象だ。単純に考えると魅力のある場所に人は集まるはずだ。しかし順位は人口動態とは結びつかない。従ってそれは結局観光。定住とは関係がない魅力なのか。


 もう一つラジオで聞いたランキング。「小学生の好きなごはんのおとも」。この1位が「ふりかけ」ではなく、「納豆」だったのは少し意外だった。同時になんとなく嬉しい気がする。好き嫌いがあるからだろうが学校給食にはほとんど登場しない。それも間もなくクリアするかな。


 昨朝のNHK全国ニュースで「ババベラ」の話題が出た。カンボジアで困窮している母親が売り子になって稼いでいること。県出身カメラマンが世話をし、NGOが業者などの協力を得てバックアップしているらしい。アイデアが発展途上国を支えるいい例だと思った。紹介したい。

審美眼と体力維持

2018年10月20日 | 読書
 なかなか減らないモノだけれど、新しく増やすことには慎重になっている。
 
 生活が狭まってきただけさ、と断言されそうだが、楽しく生きていくために必要なモノとはそんなにないものだ。



Volume123
 「限られたモノで豊かな生活を送るには、モノを選ぶ時、自分にとって必要なのかどうかをしっかり見極めねばいけません。ましてやいまはネット通販が当たり前ですから、コンピュータの画面からモノの良し悪しを判断するレベルの高い審美眼が必要です。」


 建築家安藤忠雄が、『通販生活』の冒頭で語ったこと。

 なるほど、「審美眼」ね。

 「審美」とは「美と醜とを識別すること」である。

 安藤は続けて「どうしたら審美眼を養えるのか。好奇心を持ち続けることです」と記してある。

 もっともなことだが、今肝心なのは「好奇心」を持つ場の設定だと思う。


 つまりは、ネット以外の場をどう拡げていくかということにならないか。
 一日中、PCの前に坐っていても、スマホを日がな見つめていても、好奇心を持つことは出来るだろう。

 しかし、それはともすれば、誘導された、きわめて消費的な、そして地滑り的な(笑)傾向になっていくだろう。審美から逆に離れていく気がする。

 お手軽なメディア以外の場で、身体と脳・心を使い、好奇心を刺激する場が必要なのだ。
 そうなると、結局、身体を鍛えて、いやせめて体力維持していくことが大事なのだと、丸めた背中を思わず正す。

「ねぁ」の生き残りは

2018年10月19日 | 雑記帳
 一昨日「ホジ」のことで方言の本を見ていたら、いつものことながら、この頃使っていないなあという言葉を見つけ、読み入ってしまった。いわゆる共通語(これ自体も死語か)でも同じだが、使われなくなった語は、使われなくなった生活や感覚を表す。探ると今が見えたりする。


 ちょうど「ほじなえ(ほじねぁ)」のページだったので「ねぁ」(ない)を表す語が並んでいた。形容詞・形容動詞にあたる箇所で、本当に何年も口にしていない語を見つけ、ああ、言っていない、言う必要がなくなったのか、言う現象、対象がなくなったのか…と思いを馳せてみた。


◆がじぇねぁ「子供っぽい。幼稚だ」(→頑是ない)

 養育、教育が良くなりそんな子がすくなくなったのか。いや、そういう評価をすること自体躊躇われるからか。まあ第一、子供の総数が少なくなったからね。


◆まんじぇねぁ「臆しない」

 これもどちらかと言えば子ども相手に発する場合が多いか。しかし年齢に構わず性格や行動の一面を表している。ある面のしなり強さも示すので、そういう人は珍しくなってきたと言える。


◆おどげでねぁ「容易でない。冗談でない」

 実際はそういう出来事などまだありそうだが、あまり使わなくなった。適性とかみあうことが重視される世の中なので、抵抗の大きいものは避けているのか。天変地異は結構あるが、使われないようだ。


◆たうぇぁねぁ「だらしない」(→たわいない)

 昔はよく酒飲みに関連して使われた。酒を飲んでだらしなくなる様子にぴったりだ。しかしこの頃はめっきりと少ないように思う。いいことには違いないが、発散できない要素もあるのか。


 その他いろいろあったけれど、いまだに、結構心の中で呟いているのが二つばかりあると気づく。

◆もじゃねぁ「考えが足りない。乱雑」

◆ちらちけねぁ「厚かましい」

 前者は自己反省。

 後者は、お偉い方々を指すのにちょうどいい言葉。

命と誇りの両立を選ぶ

2018年10月18日 | 読書
 仙台在住の小説家熊谷達也がどんなふうにあの大震災を描くのか、興味があった。新聞連載という形をとったのは何か訳があったか。それはともかく、災害が頻発するこの国にあって、考えるべきことは実に多い。三章構成で「2011年、70年後、2014年」という描き方をしているこの小説には、明らかに提案性がある。



2018読了99
 『潮の音、空の青、海の詩』(熊谷達也  NHK出版)


 二章で語られる仮想現実は、被災地に限らず想像できる設定だ。また「アウターライズ地震」の到来と被害を組み入れたことにも頷ける。やはり地震・津波対策や原発の核最終処分をどう展開するかは、明らかにこの国の「正しい」未来はどうあるべきかを問うているだろう。この議論は顕在化していると言えるか。


 ある雑誌で、起業した女性社長が成功の秘訣を「正解を選ぶのは難しいと思います。大切なのは、正しい選択をすることより、選択したものが正しくなるようにすること」と語った記事を読んだ。確かに一面の真実だが危険性も大きい。決定したその方向に身を委ねることを重視し、議論を尽くさない発想が拡がりつつある。


 まして国や自治体の将来に関わる政治的な決定は、そこに住む人間の「命と誇り」に直結する。その二つを両立させるため、私達は真剣に目を凝らさないといけない。二章にある「その街に暮らす人々のアイデンティティーは何か」という問いは、今地方に住む者にとって幾多の難題を解決するうえでの基盤である。


 作品としての面白さは今ひとつながら、当事者性を持つ力のこもっている小説だ。舞台となる「仙河海市」のモデルは間違いなく気仙沼市。震災の年から続けて訪問した街だが、ここ数年足が遠のいた。いったいあの震災で何を学んだか、時々忘れそうになる自分に喝をいれねば…。来年はかの地を訪れようと思う。

「本神」と使ってみたいホジナシ

2018年10月17日 | 雑記帳
 「アヤ―、ホジニャゴドォ」と昔は日常会話でよく耳にした。「ホジニャ」…『秋田のことば』の見出しには「ほじなえ」と出ている。「とりとめがない。非常識だ」という意味。非難する、馬鹿にする時に使う。この「ほじ」とは何か。子供の頃から幾度となく頭に浮かんできたことだ。


 私ばかりでなく思ったことがある人はいるだろう。「ホジ、オドスナヨ」などと言われたり、または言ったりした経験者は多いはずだ。『秋田のことば』では、それを「方図」という熟語で説明している。広辞苑には、方図とは「さだめ。かぎり。範囲。際限」という意味で載っている。



 慣用句として「方図がない」もあり「限りがない。際限がない。また、とんでもない」とある。しかし使ってきた感覚として「方図」では、どうもぴんと来ない。個人的に「ほじ」とは本気や正気など、その類と予想していた。発音としても「ズ」から「ジ」は変化しにくい気がする。


 『秋田ことば』(北条忠雄)には「ホズネァ」がある。方図を取り上げながらも「はっきり言えない」とし「法度(はっと)と解せばしっくり」と記している。あと、手元にある冊子では『東由利の方言』では「ホジナシ」を「まぬけ」と記すだけだ。ただ『秋田語の教科書』は違っていた。


 書く発端が「ほじ」とある本。著者の職業は鍼灸師。「ほじ」の本義を「本神(ほんじん)」と論じた。本神とは、東洋医学で語られる「精神」と「それを収める蔵(臓器)」の働きを基本とした考え方のようである。「健全」に置き換えて説明した箇所もいい。使ってみたいホジナシである。

調和という強み

2018年10月16日 | 読書
 イギリスでは「ベントー」(弁当)が完全に英語として通用すると、茂木健一郎が書いていた。
 寿司やラーメンだけでなく、いわゆる海外における日本食は、ブームの域を越え、定着に向かいつつある。
 それは、茂木によると「日本文化の影響力は明らかに強まっている」一つの証拠としてとらえることが出来るようだ。


Volume122
 「大切なのは、海外の日本食ブームが示している日本の『強さ』は何かを見極めることだろう。それは、端的に言えば、さまざまな影響、要素を混ぜて、調和させる力。」


 似たようなことは、昔から言われてきているはずである。

 例えば宗教に関することは典型的か。
 例えば工業製品であっても、そうした発想のあるモノづくりが日本は得意だったはずだ。
 
 それが今は「」において、世界に発信できるコンテンツとして最も顕著に表れているのかもしれない。



 他の文化、また日常生活においても私たちは「調和」を重視しているはずだし、そういう点を改めて見直すことが、閉塞感を打破するきっかけにつながるのかもしれない。


 もちろん教育の場でも十分意識されてはいるだろう。
 「調和」というキーワードは古い印象もあるだろうが、今流布している様々なワードに引っぱられるのではなく、強みを生かすためにはもっと強調されていい。

 調和ということを視点にした学習構想などは十分に開発の余地があるだろう。

読書の巨人のキニナルキ

2018年10月15日 | 読書
 日本一の読書人といってもいい松岡正剛が、BSプレミアムの『推しボン!』という番組に登場していた。

 6万冊以上という蔵書のある研究所が撮影場所で、三人のゲストが登場し、自分の「本棚」(つまりは読書歴)を語っていく内容である。
 三人は小説家、漫画家、冒険家であり、それぞれに実に面白く興味深く視聴した。

 それと同時に、ぽつりと語る松岡の一言が実に含蓄があったので「キニナルキ」として、ここで拾っておきたい。


Volume121-1
 「本棚は頭の中のクローゼット」

 似たようなことを内田樹氏も語っていたと思う。つまり書棚を見ると、思考や嗜好は明らかになるし、食べ物や着る物と似ている。
 それにしても整理は大事(反省!)


Volume.121-2
 「本は人に贈るのがいい」

 あまり実行できていないな。どこか「考えの押しつけ」のように思ってしまうのだろうか。自信のなさか…。そう言えば私の頂いた経験から語ると、くださった方はみんな一流の方である。


Volume.121-3
 「本は路地の飲み屋」

 これは面白い。読み始めないとどんな中身かわからないという比喩だろう。ぱっと路地を見渡し、店名だけ見ても実際はずいぶんとイメージと違うこともある。とにかくそういう発見、驚きは路地に入ってみないとできないことだ。


Volume.121-4
 「昔は、本屋に薬も置かれていた。」

 本屋は、人の心身に働きかける存在でありたい。
 通販ばかり使っちゃいかんぞ!と再び猛省。

名著を20年後に読む

2018年10月14日 | 読書
 テレビコラムの名著。20年前の発刊で、その頃に読んではいなかったと思う。観ていない番組は多いが、取り上げられたタレントはほとんど知っているし、今も芸能界で生き残っている者が少なくない。著者を「disる」文体と揶揄する人もいた。確かにと頷きつつ、それ以上の哲学的とも思えるフレーズに惹かれた。


2018読了98
 『テレビ消灯時間』(ナンシー関 文藝春秋)



 そう言えば芸能人の運動会やスポーツ№1を決めるバラエティなどよくやっていたなあ。その結果二流的存在が選ばれたりする番組を、ナンシーは次のように括っている。「筋書きのないドラマは必ずしも『筋書き以上のいいところ』に着地するとは限らない」うん、なるほど。期待を裏切る現実への覚悟が問われている。


 それゆえか、当時はさほど目立たなかったリアクション芸人等が勃興してきたか。「お約束事」をそれなりに、あるいは少しエフェクトさせて着地させるようなことが流行っている。それってテレビの世界だけではなく、政治や日常生活にも浸透している気もしてきた。陳腐な言い方だがメディアは世間の鏡と言える。



 我々世代には懐かしい水野晴郎の映画解説。25年続けた「金曜ロードショー」の解説者を降りたのがその頃。もちろんナンシーは全然評価しない。返す刀で当時でも長寿であった「笑点」を斬る。「長寿番組だけが到達し得る、無意識・無自覚による無意味。そしてその無意味による、盤石の安定感」…見事な分析だ。


 今もし存命ならば、どんなコラムを書いたのだろう。マツコや武田砂鉄に少し似たイメージを持ちたいが、目の付け所は違う。もはや限界で「本当の消灯時間だよ」とでも言うかもしれない。けれど相変わらずテレビは夜中も放送を続け、チャンネルは増え続け、再放送も増え続け、ダラリヌラリと床を湿らせている。

たどれば秋の匂いも

2018年10月13日 | 読書
 昨日読了した新書に絡めて、自分の皮膚接触や肌の記憶を少したどってみたい。母親が一番だったことに間違いないだろうが、今思い出せるのは背中に負ぶわれた感触か。しかしそれはどちらかと言えば、視覚情報と重なっている。ぼんやりではあるが、確かにあったのは映画館だ。


 だから、怪獣映画より先に「渡り鳥シリーズby小林旭」を母の背中越しに見ている。その行き帰り、吹雪が顔に当たって寒いのに負ぶわれた背中に包まれた温かさ…遠い記憶だが微かに残る。残念ながら、飲んだくれの親父にそうした皮膚接触の覚えがない。印象的なのは祖母だ。



 祖母の足。これはくっきりと明確にイメージできる。幼い頃、いつも「足踏み」(足の平を、足で踏んで揉む)をさせられたからだろう。足の外側に出ている骨(腓骨というのだろうか)の外側の皮膚がガサガサしていることなど、妙に忘れられない。それだけ繰り返し摺り込まれた。


 祖母は足の大きな人だった。それほど大柄ではなかったが骨太でだから96歳まで生きた。最後は施設に入り老衰で逝ったが、駆けつけた時に亡くなった祖母の足を触り、その冷たさに心揺さぶれた。肌の記憶が呼び起されたのか。そう感じられたのは、今思うと幸せなことだろう。


 後は何を思い出せるか。ごつごつした男の手の感触。誰か。おそらくはどちらかの叔父の手だ。小4で父を亡くしたので二人にはずいぶんお世話になっている。正反対の性格であったが、どちらも百姓としての矜持を持っていた。稲刈の手伝い、茸採り伝授…秋の匂いとともに甦る。

もっと、コチョガシェ!

2018年10月12日 | 読書
 『秋田のことば』に見出しには「こそくてぁ・こつぁくでぁ」が載っているが、自分としては「こちょくしゃ」が一番近い。つまり「くすぐったい」。以前はその「コチョコチョ」したりされたりする遊びをよくしたものだ。以前に比べそんなふうに触れ合う頻度は下がっているような気がする。親子でも友達同士でも…。


2018読了97
 『子供の「脳」は肌にある』(山口 創  光文社新書)



 よく特定の身体の部位を指して、第二の脳や心臓などという言い方をすることがある。またこの新書にも載っているが、移植した臓器が記憶を持っていたという事例があることも聞く。それらに通ずるこの書名に象徴される考え方は、目新しい知見ではないが、同時になんとなく軽視したり、忘れがちになったりする。



 冒頭の問い「子どもを『頭』『体』『心』の三つの部分に分けるとすると、どの部分から優先的に育てたいと思うだろうか」に真剣に応えようとするとき、この「子どもと肌」というテーマはかなり重要な手がかりとなる。体が知的活動を促し、心は体験を通して作られることは疑いなく、この順番は間違えられない。


 体育てを第一とし、核となる「肌」に目をつけた論は納得できた。「肌が合う」という慣用句が示すように肌感覚は「性格」と言えるかもしれない。また育児や性格形成に肝心な「なでなで」「スキンシップ」について各種データを紹介しながら、改めてその有効性を強調する。「肌は露出した脳」という表現は印象的だ。


 学級担任時代の反省の一つに、あまり子どもと遊べなかったことがある。その代替ではないが、中低学年を持った時は直接身体的接触がある行為を意識的に取り上げていた。さよなら握手、誕生日等の肩車、くすぐりゲーム…今でも覚えていると語ってくれた子もいた。皮膚接触の養育価値をもっと大きく捉えたい。