山本亭の庭を覗き見、まだまだ奥が深いが・・ここまで
飛び石を渡りて、まだまだ奥までの庭は続きますが、
一般の人は、入域禁止です。
前回(四角蓮池)↓は、通りすがりを撮ったもの。
・ 山本亭美観を眺めカムバック
心洗わる大正ロマン (縄)
- ・ 柴又の大豪邸の散策に
栄華のあとを垣間見るなり (ヒキノ)
ジックリ観察ください!!山本亭
コメ欄は閉めています。
山本亭の庭を覗き見、まだまだ奥が深いが・・ここまで
飛び石を渡りて、まだまだ奥までの庭は続きますが、
一般の人は、入域禁止です。
前回(四角蓮池)↓は、通りすがりを撮ったもの。
・ 山本亭美観を眺めカムバック
心洗わる大正ロマン (縄)
ジックリ観察ください!!山本亭
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都内でも屈指、葛飾柴又、山本亭の庭を見る
駄句(5・7・5)を添えました。
柴又帝釈天近く、山本邸の日本庭園の一部。
雪つり、雪吊(ゆきづり)は、冬季、雪が付着することで、
樹木の枝が折れないように縄で枝を保持すること。
雪つりや枝より流る縄のかず (縄)
池、日本の庭園ではさまざまなスタイルがあるが、伝統的な日本庭園は自然を模しているので、
その池も複雑な形になっているものが多い。しばしば池の脇に、渓谷を模した岩をいくつか配置し、
岩から池へと水をひいているものが多い。この池は単なる四角。
蓮の葉や鯉の泳ぎににごり水 (縄)
つくばい(蹲踞、蹲)とは、日本庭園の添景物の一つで路地(茶庭)に設置される。
茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。
つくばやの水の流れに苔の花 (縄)
飛び石は日本庭園で、歩行のために置かれる石。通常は扁平(へんぺい)な石を用い、半分ほどを地中に埋める。
人の歩幅に合わせ、園内の順路にそって配置される。
木漏れ日や行く先々の飛び石に (縄)
予報によれば明日の朝は、相当冷え込みが厳しいとか・・・・。
風邪は万病のもと、お互いに気を付けましょう。
コメント欄は開けています。
近くの高砂団地付近を散策して思うこと
人口の急激増加 世帯の高齢化 街の移り変わりを見る
その昔羨望のまなざしで見つめた団地は今
巨大団地「多摩ニュータウン」
高度経済成長期における大都市圏への人口集中に対応するいために、都内各地に
大規模な集合住宅が建てられた。
これが若い人たちに文化的な生活ができると、羨望の眼差しでもてはやされ
いわゆる「団地族」なる言葉も生まれた。
1965年代~1970年代後半)
右の黄色い線内、第2次ベビーブーム(団塊の世代)
昭和26年に公営住宅法、昭和30年に日本住宅公団法が制定され、住宅不足解消の一翼を担いました。
ここ高砂団地(都営住宅高砂4丁目)昭和39年に都営団地完成、新に1,800世帯の
高層団地住民を迎えた。
葛飾高砂4丁目付近は一気に人口が膨れ上がった。
そこで1世帯当たり2人の子供が生まれたとして、簡単計算で3千人余の人口増になり、
これが第2次ベビーブーム(団塊の世代)である。
空地の向こうに閉校になった旧明石小学校が見える
空き地は団地を取り壊した場所
葛飾区総合教育センター&鎌倉郷土資料館に変わった。
校庭から児童の声は聞こえない!!
超高層のマンションになり集訳化された。
役目を終えた高砂団地旧建物取り壊す。 左に同じ、集約高層化したビルが奥に。
新世帯には一気に子供が増えたことにより旧来の高砂小学校では賄うことができなかった。
明石小学校開設により学童数の急増をしのいだ。1971年(昭和46年開設~
2000年(平成12年)の閉校)のわずか19年の学校歴史から見れば短しスパンです。
したがって高砂団地も、それなりに老朽化し言葉は悪いですが空き部屋が
多くなり棟によってはスラム化したところも見受けられた。
当時に羨望の眼差しで見つめた、巨大団地「多摩ニュータウン」がその時期に差し掛かっている。
コメ欄は閉めています。
市川スーパー堤防の高層住宅
高規格堤防(こうきかくていぼう)は、河川堤防の高さに対して
堤体の幅を長くしなだらかに堤防を整備する事業。スーパー堤防とも称される。
国の事業と東京都事業に分かれる。
河津サクラ眺めながらの、路上観察学と相成りました。
上:従来型の堤防
下:スーパー堤防
スーパー堤防は高さに対して堤体の幅が約30倍である。
堤防沿いの建物などを移転させてから盛土(図では赤い部分)
を施し、整地後に改めて建物を建築する。
市河スーパ堤防
スパー堤防模型鳥観図(建設省資料)
市河スーパ堤防付近から、江戸川JR総武線鉄橋を見る
スパー堤防付近から、江戸川をはさんで東京スカイツリー方向を見る
、
スパ堤防①
スパー堤防②
天高く聳えるスーパ堤防、河川堤防の有効利用
スパー堤防③
スパー堤防とさくら
この道路を5分程歩くと、『いちかわ堤サクラ・河津サクラ』の名所となります。
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北原白秋&歌碑に続く小径
白秋は、「この道」「ペチカ」「カラタチの花」「城ヶ島の雨」等々
数々の優れた童謡・詩歌や短歌を世に送り出しています。
その遍歴の中で結婚離婚と何回かを繰り返し、暮らしにおいても極貧の生活でした。
紫烟草舎の庵【葛飾郡小岩村小岩田の三谷という(現在の江戸川区北小岩町八幡神社で】
『雀の生活』『雀の卵』著わしています。
小岩八幡神社 里見公園紫煙草舎
紫烟草舎 (小岩から市川里見公園へ)
紫煙草舎&歌碑の一関係図
現地に行くとすぐ傍らの説明板に、明治から昭和に活躍した詩人、北原白秋がこの近くに住んでいたことを偲び、
八幡神社の境内に立てられた、ということがちゃんと書かれています。住んでいた家屋である紫烟草舎は、
江戸川を挟んで向かいの国府台にある里見公園に再現されており、興味のある方はそちらも是非訪れるとよいと思います。
筆者はこの里見公園近くに家庭菜園を借りて週に1~2日くらい割りで、6年間通いました。
その中には、妻・江口章子との生活の中でこ~2んなことが・・・・・。
<寂しさに堪え、貧しさに堪えて>
創作と推敲に打ち込む白秋を慰めたのが、住み替わる先々での雀でした。
雀に遊んで貰い、慰めて貰いながら、
乏しい苦しい中で米櫃の白玉を与えて、白秋と雀たちの暮らしは続きます。
その哀歓を、感謝と愛情を込めて綴ったのが、この記録(雀の生活)。
長編散文詩として、小さな雀の大きな本となりました。
また著者自ら、貧しい者の霊(たましい)の記録とも述べています。
この時期、苦楽を共にした章子夫人が
「若しもあなたが立ち行く事も出来ず、もう餓死するばかりだと云ふ場合が来ましたら、
この雀達が一粒づつでもお米を咥えて来て、きつとあなたをお助けすると思ひますわ。」
と白秋を慰めたエピソードが、語られています。
「なるほど、三年後になつて、雀がお米を一粒づつ咥えて来ました」
と、謝している通り、雀が助けてくらた。
この書物の出版から、徐々に窮乏生活を脱する事が出来たようです。
『雀の生活』の第一章より。
甲和亭前の歌碑・小径
甲和亭前の小径
甲和亭前の広場
白秋が暮らした大正期の町をしのぶ――。東京都江戸川区は2日、北小岩にある茶室に地元ゆかりの歌
人、北原白秋の歌碑を建立した。白秋の短歌「夏浅み 朝草刈りの童らが 素足にからむ 犬胡麻の花」
を刻んだ。50~60歳代の女性を中心に短歌ファンを呼び込み、区は茶室を集客スポットにしたい考えだ。
竹垣の中に甲和亭がある
甲和亭の入り口
編集後記
白秋の雀への思いやり、雀との対話に感動した。
唱歌の中にも、雀を扱ったものが数多く見られます。
雀の心の中までもくみ取り、一挙手一動作を観察して
対話・気持・洞察して作品に仕上げる。
「きっと、雀が私を助けてくれる≫
「なるほど、三年後になつて、雀がお米を一粒づつ咥えて来ました」
と言うことの意味を知る事が出来ました。
白秋(作家)の人間愛、ものの見方や想いに、縄文人は心を盗まれた。
白秋の暮らした現場にまた尋ねてみよう。
コメ欄は閉めています。
山本亭の外庭の植木
航空写真で山本亭をご覧ください。
案 内 図
白い線が寺の白壁 黄色い線 山本亭内の通り抜け道路
黄色い線付近から見た外庭の佇まい
石灯篭と名残の紅葉
庭の名残の紅葉
茶室の入り口
掛け軸に菊の香添えて茶筅置く (縄)
芝生を真ん中に配し植木が植栽されて
池
手水石
植木根元に多くのツワブキが…
松くい虫防除 孤も巻き
冬の風松寒ろう孤もを着せ (縄)
庭石と古木
山本亭表門
◎ 我々の入った防空壕とはチョイトチョイト格が違います。
◎ 立派な庭園です、とくとご覧ください。
山本亭|葛飾区観光サイト “山本亭” (katsushika-kanko.com)
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お越し有難うございます。
柴又・山本亭内の通路を歩く
≪寅さん記念館への通り抜け道≫
カメラ部品で財を成し、その後葛飾区に移管された
建築された年は不明であるが、大正末期から昭和初期に増改築を重ねて現在の姿になったとされている。
もともとこの土地は庄屋の鈴木家の土地で、1923年(大正12年)の関東大震災まで
鈴木家はこの場所で瓦工場を営んでいた。
潜り戸付近の案内板
現在の「山本亭」を構えた山本栄之助は、浅草でカメラの部品を製造する合資会社
山本工場の経営者で、住居も浅草小島町(現在の台東区小島付近)にあったが、
関東大震災で浅草が被害を受けたため、柴又に移転。この際に鈴木家の瓦工場跡を取得し移転した。
以後、山本家が住んでいたが、1988年3月14日に葛飾区の所有となり、1991年4月から一般公開された。
現在では伝統行事の披露会や、琴の演奏会など多彩に開催されている。
2003年7月28日に東京都歴史的建造物 に選定された。番号は62番。
2018年には「葛飾柴又の文化的景観」が重要文化的景観に選定されており、山本亭は景観の一翼を担う。
裏口から中に入る通路付近の一分を散策した。
白壁は帝釈天題経寺と右側奥の白壁作りが山本亭
山本亭裏入口、
寅さん記念館への通り抜け道。
通路竹垣と白壁の土蔵(右上)
竹垣と生垣の組み合わせ
庭には柿が熟していました。柿の木先100m江戸川土手
柿を食べにモズが来ていました。
青空に百舌が啄ばみ枝が揺れ (縄)
守り柿では多すぎし青い空(同上)
コメ欄はopenです。
お越し有難うございます。
葛飾区北沼公園船着き場
災害や非常時に水上交通により物資の運送に使われる
この付近は散歩コースでいつも散策に利用する道路です。
此の船着き場が出来たのは相当前ですが、太陽光による照明装置が設置されたので以前と違い目立つようになりまた。
災害は24時間いつどこに発生するか分からない。そんな関係から夜間でも船着き場が利用できるように整備したのでしょう。
葛飾区内の河川に6ヶ所有ります。
奥戸新橋西詰めに設置された案内板
防災エリアマップ、
防災拠点(避難場所)が明示されている。
北沼公園船着き場の看板
船着き場、
もしもの時非常災害の時、緊急物資の搬入し防災拠点に運ばれ被災者の元へ・・。
新設された、太陽光の照明
太陽光の照明装置
『災害は忘れたころにやって来る』
今朝6日の7時のニュースを見ていましたら、梅雨前線の活発化により、熊本・鹿児島県地方に大きな水害が発生していた。
被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。
都市社会においては暴風,豪雨,豪雪,洪水,高潮,地震,津波等々
何が起こるか分からない。備えあれば患いなし。
openn
youtubeで・・・これですべてがわかる
葛飾区登録文化財、土木学会選奨土木遺産
閘門橋石のベンチ
水は高きから低きへ流れる
流れ流れて行く末はどこへ
天に上がりて雲となり
またまた地上へ落下する
閘門橋をせき止めて
大きな大きな池と成す
多くの田畑や生き物を潤す
水元・閘門橋がバッチリ 分かる
shut
入り組んでいるので「簡易閘門橋マップ・目次」を作りました
名称閘門橋
所在地東京都葛飾区竣工年1909(明治42)年選奨年2013年に平成25年度選奨。
閘門橋は、明治時代に建造された.
都内に現存する数少ないレンガアーチ橋であり、上流側と下流側でアーチの門数が異なる。
非常に珍しい構造の橋梁だけでなく、樋門としても貴重な土木遺産であります。
現在は歩道橋
珍しい橋なので説明が分かるように名称を付した。
煉瓦作りのベンチ
閘門橋銘板
橋の竣工銘板には明治42年と刻まれている。地元の水利組合によって造られた、
都内に現存する数少ないレンガアーチ橋である。
現地の説明板によると「閘門」とは、水位、水量等の調節用の堰のことで、
古利根川の逆流を防ぎ、水田の水源確保などのために造られたものという。
上流側と下流側でアーチの数が異なる珍しい構造の橋梁である。
56号線にせり出し踊り場
せり出し踊り場とと56号線(右)
水門を操作するモニメント
水元小合溜井か流れ出た水量
水門を操作するモニメント
レンガ作りの閘門橋 ベンチ ↑
水元小合溜井にせり出し踊り場部分
小合溜井から中川方向への水流の勢い
水元小合溜井方向を見る
コメ欄は閉めています