日々是好日・スローライフ(寅さんの柴又から発信)

・日常・創る・彩る・考え・綴る
・フジノ会・探検団・かめの会(俳句)
・家庭菜園 ・ めばえ・成長・収獲

柴又帝釈天境内にて

2021年11月24日 | 紀  東京下町の情景ウオッチ

七伍三のお祝い、晴れ姿

 

 

本殿前で手を合わせる人、奥に入りお祓いを受ける方

それぞれの姿が見られました。数組の晴着姿の親子連れに出会いました。

その昔は、幼い子の死亡率がとても高く、「7歳までは神の子」と言われていました。

このことからも分かるように、当時は7歳まで元気に成長することが当たり前ではありませんでした。

子供の健やかな成長をお祈りするための行事として七五三の儀式がおこなわれていたのです。

その名残りとして現代でも七五三の儀式があります。

七五三は、子供が無事に育っていることの感謝を伝え、これからの成長を願う意味があります。

 

 

 

  微笑みてハイポーズとや七五三 (縄)

               七五三花を手に持ち千歳飴 (縄)

 

 

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柴又帝釈天に馳せ参じた

2021年11月22日 | 紀  東京下町の情景ウオッチ

寅さんサミット

 

 

 

「寅さんサミット2021が開催された。

しかしコロナ禍の後遺症で、イベントは無くサミットと言っても寂しい限りでした。

参道周辺には観光客が居りましたが、やはりHPの地方出店の参加者が

無いということは寂しい限りでした。

 

 


参道はここから始まります。

 

 

遅ればせの仁義、失礼さんでござんす。

わたくし、生まれも育ちも東京葛飾柴又です。
渡世上故あって、親、一家持ちません。
カケダシの身もちまして姓名の儀、一々高声に発します仁義失礼さんです。

帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎。
人呼んでフーテンの寅と発します。

皆様ともどもネオン、ジャンズ(ジャズ)高鳴る大東京に仮の住居まかりあります。
不思議な縁持ちまして、たったひとりの妹のために粉骨砕身、売に励もうと思っております。

西に行きましても東に行きましても、とかく土地土地のおあにいさん、おあねえさんに
御厄介かけがちなる若造でござんす。

以後見苦しき面体お見知りおかれまして、恐惶万端引き立って、よろしくお頼み申します。

 

 

 

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青空の下、黄色く輝きてた柿

2021年10月25日 | 紀  東京下町の情景ウオッチ

散歩の途中で見かけた、甘い?渋い柿?

 

 

形の大きさからして、むかし木に登って食べた”百目柿”?

甘柿の代表は百目柿で、渋柿は”蜂谷柿”で、皮をむき吊るし柿にした。

散歩かてら見かけた柿です。

食べられる柿かな・・・?そう思いながら、少年時代に裏の柿の木に登ったことを回想した。

 

 

コメント欄で 百家争鳴ひゃっかそうめい 議論突出!?

▲ 柿季節「百目・百匁」でサアどっち
          重さは「目方」秤は「匁」(縄)

 

 

 

回  想

つるし柿秩父夜祭熟れるころ (縄)

(吊るし柿のひもは、山から藤の太いのを取って来て小槌で叩き柔らかくし
裂いて作りました。木の皮ですから白く丈夫でした。
12/3(夜祭り)が近ずくと、「干し柿の仲買さん」が農家を訪れて、買い占めて行き、
これが夜祭りの大道で売る、干し柿でした。

 

 

▲ 在りし日や柿の皮剥き漬物に
                甘味を増すと入れしぬか床 (縄)

 


ネットから借用

晩秋の秩父路の風物詩「吊るし柿」です。 柿の種類は「蜂屋柿」です。

この状態では渋くて食べられませんが、約一か月間、吊るして干すことに不思議と甘くなるのです!

吊るす紐は山の藤でしたが、現在はビニール紐。

 

 

 

 参考(図鑑から)

 
    甘・百目柿                渋い、蜂谷柿 (吊るし柿の代表的)

 

 

 

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畑の〇〇

2021年09月14日 | 紀  東京下町の情景ウオッチ

俳 句
〇〇が静物として横たわり (縄) 

・・・・・・節税対策????!!



〇〇の中に季語を入れると5・7・5として完成します。

下のゴロゴロしている物を見て詠んで下さい。

葛飾区内には、このような畑があります、野菜を見てびっくり!!

数を数えて50ほどに成り~、まだまだあり混乱して止めました・・・。

 

 

 

葛飾区内の農地面積 


葛飾区は23区中第3位の農産地面積となっています。

農家個数を葛飾区で見ると、水元地区、奥戸地区、高砂地区などが
多く存在しています。




東京都全体では総面積の約 3.5%が葛飾の農地です。

高度経済成長がスタートした昭和35年(1960年)には、この4倍の
農地がありました。

経済成長と共に都市化の波に乗って、農地が宅地化されました。

 

 

 

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2021年07月15日 | 紀  東京下町の情景ウオッチ

江戸川の水をポンプUP・北小岩親水公園の源泉

 

 

 

北小岩地域を中央に流れていた北小岩川は明治11年に農業用水路として開削されたのち、
市街化が進む中で、家庭からの排水が流れ込む排水路となりましたが、蓋をかけて歩行者用通路として
地域の方々に利用されてきました。

その後、下水道整備により、その役割は終えましたが、その跡地を利用して、
四季を感じさせる樹木を植え、小川のせせらぎを演出した上小岩親水緑道を整備しました。

この滝は江戸川土手近くに設けられ江戸川の河川から揚水し親水公園の源です。

  • 開通年度:平成2年
  • 延長:950メートル

 

梅雨が明けたら夏休みこどもたちの良き遊び場となって、
子らの姿が、水の中石の上に多くはじけるでありましょう。青空の季節早く来い!!

 

 

▼ 梅雨明けや水遊びする子らの声 (縄)

 

 

 


石井善兵衛の遺徳からこの碑が建てられた。

 

 

 

上小岩親水緑道の風景 

滝から流れ出た水は、親水緑道の脇を流れ、
公園の中を通り、鯉を飼い、花を植え区民の憩いの場所になっています」

 

 

 

 

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お越しくださって有難うございます。

 

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河津サクラを見に行く途中

2021年03月03日 | 紀  東京下町の情景ウオッチ

踏切・親水緑道・電車

 

 

 

市川の河津さくらを見に行きました。

その行き帰りに路上ウオッチングをしながら、何か興味を引くものはないかと…。

何もありませんでした。

踏  切


黄色い線内は京成小岩駅の陸橋です。
これは近くの京成本線踏切です。踏切の種類 

 

親 水 緑 道


 踏切をちょいと歩くと鉄道脇に親水緑道が!

 

通 過 京 成 電 車


 踏切を渡ると間もなく上り電車が通過。

 

 

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富士山

2021年02月19日 | 紀  東京下町の情景ウオッチ

眺望富士山

一寸ビルがあって見にくいなぁ~

 

 

 

・ 遠望の富士の高嶺や半ば見え (縄)

わが家の屋上から富士山が恥ずかしそうに見えました

 


 環状7号線周辺に立つ高層ビル群で見えない。 (18日、a9,30撮影)

 

 

  

何故幹線道路の周辺に高層ビルが建つか  

 

 

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散策・高砂橋遠景

2021年02月05日 | 紀  東京下町の情景ウオッチ

葛飾区、青戸地域~中川(高砂橋)~高砂地域を結ぶ

付・奥戸、高砂の渡し

 

 

 

高砂橋(たかさごばし)は、中川に架かる東京都都市計画道路 補助280号の橋である。

現在の橋は2003年竣工の2代目であり、右岸 (西詰) の

葛飾区青戸二丁目と左岸 (東詰) の高砂二丁目の間を結んでいる



 高砂橋の橋示


 高砂諏訪橋からの高砂橋を見る。

 


 高砂諏訪橋歩道橋。東洋サッシュ跡の高層マンション


 船泊りが右岸に移動した、只今左岸工事中。

 


高砂橋、
右の高いビル葛飾一番高い「シティ金町マンション」

 
三角公園の中から見る


 三角公園から見る
10本のワイヤーと鉄骨の橋柱によって支えられていた。

 

「青戸」地名の由来

青戸=青砥説は、地名の類似から、また葛西城を藤綱の居宅跡と誤り伝えたことから生じたらしく、
いまだに混乱があるそうだ。 戸は津の転訛で、大昔の船着き場の意味

 

「高砂」地名の由来

高砂(たかさご・東京都葛飾区)は昭和7年の市郡併合までは「曲金(まがりかね)」と称した所です。
この曲金という地名は室町時代からの古い地名ですが、あまり語調がよろしくないということで、
明治時代、地租改正の時につけられた小字名「墨田・朝妻・出雲・須磨・明石・高砂・吾妻」の中から
最も縁起の良い「高砂」が選ばれたそうです。
(参考文献:葛飾区郷土と天文の博物館発行『かつしかの地名と歴史』)

 

 

 

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傘の碑

2020年11月27日 | 紀  東京下町の情景ウオッチ

クリック拡大

 

大正末期が最盛期
小岩の「東京の和傘作り」

 

 

 

所在地 江戸川区東小岩2-24-2 (善養寺)



 小岩、特に下小岩入谷(現東小岩2・4丁目)付近は、かつては和傘づくりが盛んに行われ、その販路は全国に及んでいた。小岩で傘が作られるようになったのは、一説では里見方の落武者が、此の地で傘張りで生計をたてたのが始まりといわれるが、実際に広まったのは江戸時代で、青山付近に住む小録の御家人が、内職として傘細工を行っていたものを、小岩の村人がそれに師事して技術を習得し、農閑期に副業としてとり入れたのが最初のように思われる。その後、明治後期より大正末期が最盛期で小岩の傘は「東京の地張傘」と称され、特に蛇の目は高級品であった。
 この碑はこれら地張り組合員の中で、特に業界に功績のあった、川の竹松氏を讃えるために、昭和5年(1930)3月建立されたものである。

 昭和53年(1978)7月  江戸川区教育委員会

(参考)国府台合戦

戦国時代に下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)一帯で北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた合戦である。
天文7年(1538年)の第一次合戦と永禄6年(1563年)と7年(1564年)の第二次合戦に大別される
(「第二次合戦」は近年まで同じ国府台で行われた2回の合戦を同一の合戦のものと誤解されてきたために1個の合戦として扱われている)。

 

菊花展の見学時に立ち寄りました。

 

 

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石井善兵衛、総集編・編集後記  no5

2020年04月26日 | 紀  東京下町の情景ウオッチ


水神碑から総集編・編集後記

 


水神の碑


 石井善兵衛翁の生家を見る


善兵衛樋の4文字の標識発見


 現代は配水路、そのむかし大正、昭和の時代は・・・・。

川からたんぼへ、今は配水路!

 

 




故郷の溜め池 


野遊びや池に石投げ水輪かな (縄)


 「水は高きから低きに流れる」溜め池は山間地にあり、天水や湧水を溜めて田植えの時期5~6月に放水して下地の田畑を潤した。わが故郷・秩父にも大きなため池があり流れ出たため池の水により、代掻きをし早苗を植えて、行く末の豊穣を祈った。そこには山裾に用水路を作り、急峻な土地を通水するときは木材をくり抜いた大きな樋を作って導水した。

  上小岩親水公園にある「善兵衛樋」、江戸川土手下の水神碑から端を発し調べるに至っ全5回連続記事、その前からだと多くを重ねた。碑文を見ると『
水が滝のように流れているのは善兵衛樋のシンボルであることを知った。善兵衛樋は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく流れ落ちその落ちる様は樋の仕組みになっていて、 まるで滝のようで・・・」と記しています。

  此処で、「善兵衛樋」とは如何なる仕様によって、高きから低きに流れる水の原理を応用して、干上がった付近一帯の田畑を潤したのでしょう。現代であれば揚水ポンプなる仕掛けで簡単であるが、ことはこれ江戸時代でした。4~500M離れた上流柴又地区においては、足踏み水車が6連あり揚水したと葛飾探検隊・柴又用水編調査で出会った。ある本に克明に記録が残っていた。

  ここ北小岩においても立派な水神碑が残っていましたが、≪揚水原理≫が分からない。江戸川区役所・公園課に電話したがラチが明かない、図書館はご覧の通り閉まっていて要をなさない。まだまだ田圃と河川の高低差、暗渠と堤防とのなれ合い見分したり調べたいことが沢山ありますが、石井善兵衛生家、善兵衛樋の現場を知り得たことは知を広め、上小岩親水緑道を歩いていても見方がだいぶ変わってきた。未知の部分は次への機会に譲ります。

* 検索によれば「論集≪江戸川≫」が刊行されているようです。また「江戸川区史」また↑の画像に電話番号があります。何らかの手掛かり詳細がわかるかっも、望みを託しこの項を終わりとします。
拙い調査を応援下さったブロガーの皆さんに御礼申し上げます。

 

お越しくださって有難うございます。
締めております。

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