居酒屋の看板から思うこと!
(長い文章になりました・・・)
◎ 縄文人が思ったこと
1、ノスタルジックに、小学校時代”学級クラス”を想起した。
2、兄弟姉妹が多く、名前にも末子、留雄、余分次、止子などの
名前が現実に在った。
3、堺屋太一氏が造語で流行語になった「団塊の世代」を思った。
昭和18年~19年
① 「前線へ送る夕べ」放送開始
② 学童給食、空地利用徹底(校庭が開墾された)
一般疎開, 家庭用砂糖配給停止
③ 一億国民総武装の決定(竹槍訓練開始)
④ 「予科練」「同期の桜」ラバウル小唄」・・等。
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◎ 父親になるべき男の数が減った。
本格的な戦争に突入し社会人、
予備役兵や補充兵が大量に動員された。
◎ 父親になるべき男や妻帯者が、戦地へ動員されて行った。
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第2次世界大戦の真っ只中
戦争終結
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◎ 復員兵を迎える舞鶴はゴッタ返した。
戦後の復員や引き揚げに重要な役割を果たした舞鶴港。
我が子を待ちわびる母親「岸壁の母」という歌でも有名である。
戦地から多くの人達が帰還した。
昭和24年~昭和25年
①ヒロポン患者取り締まり、美空ひばり、笠置シズコ
②千円札発行、もり、かけ15円、東京と失業対策事業
245円(ニコヨン)
②朝鮮戦争勃発(特需景気)
③キンゼイ報告、鉄腕アトム等
爆発的なベビーブーム
団塊の世代は、その膨大な人口のため、
幼い頃から、学校は1学年2桁のクラス数があった。
50人~60人学級で教室がすし詰め状態であっても
なお教室不足を招くほどであった。
2部制(午前・午後)授業があった。
その好むと好まざるに拘わらず、すし詰め教育は繰り広げられた。
進学率は5%~10%程度と低く、高校にさえ進学せず、
中学卒業後すぐに就職する者も多かった。
ああ上野駅 涙、涙・・
3年B組のあった場所
国栄稲荷神社前