森銑三・柴田宵曲著「書物」(岩波文庫)に、忘れられない箇所があります。
ちなみに、この本は昭和19年に書かれ、昭和23年に16篇が新たに書き加えられたそうです。ここで中学とあるのは旧制中学のこと。では、引用。
「なおここで私は、家庭の事情その他に依って、中等学校へ進み得ないでいる青年たちの読書のことを考えて見たい。今後も中等教育も受けていない青年たちは、社会へ出てからますます肩身の狭い思いをしなくてはならぬことかと思うが、中学の四、五年間に習う教科書を積んでみても高が知れている。少し読解力のある少年なら、語学や数学くらいを除いたら、その教科書を通読することに依って、中等教育の大体に通じて、中学卒業生に近い学力を自ら修めるのも、必ずしも不可能事とせぬであろう。しからば国家的にも優秀な講義録の類を発行して、それらの恵まれざる少年に自修の便宜を与えることなども考慮せらるべきではなかろうか。」
ここに優秀な講義録とある。もう少し続けて引用。
「そして国民学校の上級において、辞書類の利用法などをも教え、多少は自習の方法等においても指導を与うべきであろう。そして文部省あたりで、引きやすい漢字典、国語辞典などをも編纂して学童に与え、それに依って虎の巻などという安価な参考書を駆逐すべきではあるまいか。そしてまた小学校などにおいては、あまり学習科目を多岐にわたらしめずに、まず第一に読解力の養成に努めしめて、卒業後各自が自発的に自己を養って行かれるだけの基礎を作らしむべきである。しからずしては国民教育は意味をなさぬであろうと思う。」(p120)
さて、現代。
12月7日の産経新聞に別刷りで、大学生に関する特集が載っておりました。
「4年制進学率が50%を突破」とあります。
「文部科学省の平成21年度学校基本調査(速報)によれば、今年4月、4年制大学への進学率が50.2%に達し、初めて18歳人口(121万人)の半数を超えた。実際の入学者数は60万8700人(国立10万1800人、公立2万8400人、私立47万8500人)。・・一方、今年4月の短期大学への進学率は6.0%で前年より0.3ポイント低下。短大人気の低下には依然歯止めがかからない。・・・」
この大学のついては、webサイト「iza(イザ)」でも閲覧できるそうです。
http://www.sankei.co.jp/ad/daigaku-tokusyu/
う~ん。問題は大学というより、むしろ、大学を出てから。
というところに設定してみると、大学へ入ることは、何か先送りの感がじわじわと滲んでくるようでもあります。
読売新聞11月23日の一面「地球を読む」で山崎正和氏が書いております。
そのはじまりは、
「この夏、7月8日の読売新聞が、大学入試に関する気がかりなニュースを伝えていた。学力を問う筆記試験に合格する新入生の数が減り、各種の推薦制や面接中心の「AO」試験で入学する学生が増えているという。大学の学力水準を維持するには、一般入試の合格者が最低で30%は必要だとされるのに、私学では3割強がこの水準に達しておらず、なかには1%台の大学もある。ほとんどの学長が、新入生の基礎学力の不足を感じていて、入学後に到達度試験を実施し、習熟度別のクラス編成をする大学が、国公私立の全体で80%を超えたというのである。これは寒心に堪えない事態だが、かつて大学教師をしていた私の実感を裏付ける数字ではある。一部の私立大学では、工学部の入学者で分数の足し算ができず、文科系で常用漢字の書けない学生がいるという実話を耳にしたこともある。・・これでは義務教育の完了さえ果たされていないというほかない。・・・」
え~と。話がどんどんとそれていってしまいます。
講義録ということでした。
実業之日本社に「最終講義」という本があります。古本で買いました。じつはこの「最終講義」に加藤秀俊氏のものが含まれているので、開いてみたというわけです。それとは別に、興味は大学の授業へといきました。
解説を坪内祐三氏が書いております。それを引用。
「その昔、五月病という言葉があった。・・・先生の講義は十年一日のごとく使い古したノートの繰り返し。・・・私が大学に入った、今からおよそに二十年前、1978年は、その五月病という言葉がほぼ消えかかろうとする頃である。・・・・現実の講義はつまらないものばかりだった。・・・大学時代の私は、不思議なことに、つまらない講義が行われている、教室の中でこそ、一番、猛然と、読書の意欲がわいたものだった。それが私にとっての、まぼろしの、素敵な講義だった。そうやって受講(乱読)した講義(本)の中でも印象的なものに林達夫の『共産主義的人間』(中公文庫)がある。『共産主義的人間』が印象的だったのは、そこに、大学論の名篇『十字路に立つ大学』が収められていたからかもしれない。私は今でも、林達夫のような博学に秘かな憧れを持ちながら『共産主義的人間』を読み進め、『十字路に立つ大学』に出会った時の、五月終りの、金曜午後いちの、早稲田大学文学部百五十番教室、一般教養『哲学C』の授業風景を忘れはしない。マルティン・ブーバーの『我と汝の哲学』を自己流にアレンジした、出会いの哲学について語る教授Tのつまらない熱弁は、私の耳に、少しも入ってこない。『困った教授、困った大学生』というサブタイトルを持つ『十字路に立つ大学』は、こういう一文で書き始められていた。【大学の教師で一番滑稽なことの一つは、性懲りもなく四月の学期始めになると学生のことごとくが本格的な知識的熱意に燃え学問の蘊奥を極めようとして教室に集ってくるという錯覚に陥ることである。ここで、大事な学生を差し措いて教師のことをさきにいうのは、教師は常に学生に接しているが、学生は大学をいわば通過するだけだから、大学を永続的な設備たらしめている生きた要素としての教師を先ずは槍玉に挙げるのが礼儀だと思ったからである】こうして語られる林達夫の大学論は極めて刺激的だった。学問に必要なのは本来アマチュア精神であるはずなのに、大学はアカデミック・マインドばかりが大手をふっていると彼は言う。・・・・」
ところで、私は「最終講義」に加藤秀俊の講義が載っているというので読んでみたのでした。最後は、そこから引用しなきゃ。
「一般的に申しまして、今の若い人は字がたいへんへたです。文章もへたですけども、字はさらにへたです。これが字かね、といいたくなるような字しか書かない。ふだんはワープロで打った文書や論文をみせてくれますからあまり気になりませんが、肉筆の字をみると幻滅を感じますね。ひょっとすると中学卒業以来、ぜんぜん筆をもったことがないんじゃないかとおもようなひどい字の人がたくさんいます。しかし、おもしろいことに、かれらはそのかわり、コンピューターのプリンターを選ぶときにはやかましいのであります。わたしは、それらの文書処理機械についてはつねに若い人たちから教えてもらっているのですけれども、フォントがどうだとか、機械が打ちだす書体やスタイルについての知識はおどろくほど深いのであります。プリンターはこれがいいとか、あれはダメだとか、おっしゃるわけですけども、かんがえてみますと、あれは、現代の書道の流派えらびなのかもしれません。わたしにいわせれば、単純なドット・プリンターであっても書かれた内容がしっかりしていればそれでよいはずなのですけれども、若い人たちはレーザー・プリンターがどうのとおっしゃる。やっぱり仕上げがきれいな字であるほうがよろしい。それにくわえて、メーカーのほうも、やれ全角だ、半角だ、飾り文字だ、というふうにあれこれの書体を一台のワープロやプリンターに搭載することを競っていますから、いまや一億ことごとくがレイアウトマン、さらにはグラフィック・デザイナーになっているようなところもないではありません。とするなら、いわゆる【活字時代】なるものも、いささかあやしげであります。」(p535~536)
ちなみに加藤秀俊氏の最終講義は「視聴覚文化時代の展望」(1990年5月)という題なのでした。
ちなみに、この本は昭和19年に書かれ、昭和23年に16篇が新たに書き加えられたそうです。ここで中学とあるのは旧制中学のこと。では、引用。
「なおここで私は、家庭の事情その他に依って、中等学校へ進み得ないでいる青年たちの読書のことを考えて見たい。今後も中等教育も受けていない青年たちは、社会へ出てからますます肩身の狭い思いをしなくてはならぬことかと思うが、中学の四、五年間に習う教科書を積んでみても高が知れている。少し読解力のある少年なら、語学や数学くらいを除いたら、その教科書を通読することに依って、中等教育の大体に通じて、中学卒業生に近い学力を自ら修めるのも、必ずしも不可能事とせぬであろう。しからば国家的にも優秀な講義録の類を発行して、それらの恵まれざる少年に自修の便宜を与えることなども考慮せらるべきではなかろうか。」
ここに優秀な講義録とある。もう少し続けて引用。
「そして国民学校の上級において、辞書類の利用法などをも教え、多少は自習の方法等においても指導を与うべきであろう。そして文部省あたりで、引きやすい漢字典、国語辞典などをも編纂して学童に与え、それに依って虎の巻などという安価な参考書を駆逐すべきではあるまいか。そしてまた小学校などにおいては、あまり学習科目を多岐にわたらしめずに、まず第一に読解力の養成に努めしめて、卒業後各自が自発的に自己を養って行かれるだけの基礎を作らしむべきである。しからずしては国民教育は意味をなさぬであろうと思う。」(p120)
さて、現代。
12月7日の産経新聞に別刷りで、大学生に関する特集が載っておりました。
「4年制進学率が50%を突破」とあります。
「文部科学省の平成21年度学校基本調査(速報)によれば、今年4月、4年制大学への進学率が50.2%に達し、初めて18歳人口(121万人)の半数を超えた。実際の入学者数は60万8700人(国立10万1800人、公立2万8400人、私立47万8500人)。・・一方、今年4月の短期大学への進学率は6.0%で前年より0.3ポイント低下。短大人気の低下には依然歯止めがかからない。・・・」
この大学のついては、webサイト「iza(イザ)」でも閲覧できるそうです。
http://www.sankei.co.jp/ad/daigaku-tokusyu/
う~ん。問題は大学というより、むしろ、大学を出てから。
というところに設定してみると、大学へ入ることは、何か先送りの感がじわじわと滲んでくるようでもあります。
読売新聞11月23日の一面「地球を読む」で山崎正和氏が書いております。
そのはじまりは、
「この夏、7月8日の読売新聞が、大学入試に関する気がかりなニュースを伝えていた。学力を問う筆記試験に合格する新入生の数が減り、各種の推薦制や面接中心の「AO」試験で入学する学生が増えているという。大学の学力水準を維持するには、一般入試の合格者が最低で30%は必要だとされるのに、私学では3割強がこの水準に達しておらず、なかには1%台の大学もある。ほとんどの学長が、新入生の基礎学力の不足を感じていて、入学後に到達度試験を実施し、習熟度別のクラス編成をする大学が、国公私立の全体で80%を超えたというのである。これは寒心に堪えない事態だが、かつて大学教師をしていた私の実感を裏付ける数字ではある。一部の私立大学では、工学部の入学者で分数の足し算ができず、文科系で常用漢字の書けない学生がいるという実話を耳にしたこともある。・・これでは義務教育の完了さえ果たされていないというほかない。・・・」
え~と。話がどんどんとそれていってしまいます。
講義録ということでした。
実業之日本社に「最終講義」という本があります。古本で買いました。じつはこの「最終講義」に加藤秀俊氏のものが含まれているので、開いてみたというわけです。それとは別に、興味は大学の授業へといきました。
解説を坪内祐三氏が書いております。それを引用。
「その昔、五月病という言葉があった。・・・先生の講義は十年一日のごとく使い古したノートの繰り返し。・・・私が大学に入った、今からおよそに二十年前、1978年は、その五月病という言葉がほぼ消えかかろうとする頃である。・・・・現実の講義はつまらないものばかりだった。・・・大学時代の私は、不思議なことに、つまらない講義が行われている、教室の中でこそ、一番、猛然と、読書の意欲がわいたものだった。それが私にとっての、まぼろしの、素敵な講義だった。そうやって受講(乱読)した講義(本)の中でも印象的なものに林達夫の『共産主義的人間』(中公文庫)がある。『共産主義的人間』が印象的だったのは、そこに、大学論の名篇『十字路に立つ大学』が収められていたからかもしれない。私は今でも、林達夫のような博学に秘かな憧れを持ちながら『共産主義的人間』を読み進め、『十字路に立つ大学』に出会った時の、五月終りの、金曜午後いちの、早稲田大学文学部百五十番教室、一般教養『哲学C』の授業風景を忘れはしない。マルティン・ブーバーの『我と汝の哲学』を自己流にアレンジした、出会いの哲学について語る教授Tのつまらない熱弁は、私の耳に、少しも入ってこない。『困った教授、困った大学生』というサブタイトルを持つ『十字路に立つ大学』は、こういう一文で書き始められていた。【大学の教師で一番滑稽なことの一つは、性懲りもなく四月の学期始めになると学生のことごとくが本格的な知識的熱意に燃え学問の蘊奥を極めようとして教室に集ってくるという錯覚に陥ることである。ここで、大事な学生を差し措いて教師のことをさきにいうのは、教師は常に学生に接しているが、学生は大学をいわば通過するだけだから、大学を永続的な設備たらしめている生きた要素としての教師を先ずは槍玉に挙げるのが礼儀だと思ったからである】こうして語られる林達夫の大学論は極めて刺激的だった。学問に必要なのは本来アマチュア精神であるはずなのに、大学はアカデミック・マインドばかりが大手をふっていると彼は言う。・・・・」
ところで、私は「最終講義」に加藤秀俊の講義が載っているというので読んでみたのでした。最後は、そこから引用しなきゃ。
「一般的に申しまして、今の若い人は字がたいへんへたです。文章もへたですけども、字はさらにへたです。これが字かね、といいたくなるような字しか書かない。ふだんはワープロで打った文書や論文をみせてくれますからあまり気になりませんが、肉筆の字をみると幻滅を感じますね。ひょっとすると中学卒業以来、ぜんぜん筆をもったことがないんじゃないかとおもようなひどい字の人がたくさんいます。しかし、おもしろいことに、かれらはそのかわり、コンピューターのプリンターを選ぶときにはやかましいのであります。わたしは、それらの文書処理機械についてはつねに若い人たちから教えてもらっているのですけれども、フォントがどうだとか、機械が打ちだす書体やスタイルについての知識はおどろくほど深いのであります。プリンターはこれがいいとか、あれはダメだとか、おっしゃるわけですけども、かんがえてみますと、あれは、現代の書道の流派えらびなのかもしれません。わたしにいわせれば、単純なドット・プリンターであっても書かれた内容がしっかりしていればそれでよいはずなのですけれども、若い人たちはレーザー・プリンターがどうのとおっしゃる。やっぱり仕上げがきれいな字であるほうがよろしい。それにくわえて、メーカーのほうも、やれ全角だ、半角だ、飾り文字だ、というふうにあれこれの書体を一台のワープロやプリンターに搭載することを競っていますから、いまや一億ことごとくがレイアウトマン、さらにはグラフィック・デザイナーになっているようなところもないではありません。とするなら、いわゆる【活字時代】なるものも、いささかあやしげであります。」(p535~536)
ちなみに加藤秀俊氏の最終講義は「視聴覚文化時代の展望」(1990年5月)という題なのでした。