岩波少年文庫に、杉浦明平の「今昔ものがたり」があります。
杉浦氏は、その文庫の最初を「悪人往生」という物語からはじめておりました。
ちょっと、他の少年少女用の本「今昔ものがたり」では、それがみあたらない。
どうして杉浦氏は、この物語を最初にもってきたのか。
杉浦氏はあとがきで、「この本の始めの五篇は、本朝仏法部から撰り出した作品です。中でも巻頭の一篇【悪人往生】は胸のすかっとするほど気持ちがよいとは思いませんか。・・」とあります。これが今昔物語のどれなのか、わからないでいたのですが、現代教養文庫の西尾光一著「今昔物語 ― 若い人への古典案内」をなにげなく開いたらありました。テーマ別の「出家の機縁」というところに入っていました。巻十九の第十四話「讃岐の源太夫の出家」。題は「悪人往生」とは違っておりました。それで題名だけからでは見つけられなかったのだとガテン。それは香川県の豪族・源太夫という生まれつき荒っぽくて、「殺生をこのうえなく愛好し、村のならずものを手下にして、朝から晩まで山野を駆けまわっては、鹿や鳥を打ち殺し・・・親兄弟や夫がさからえば、鹿や猪と同じように、あっさり射殺したり、首を斬って平気だった。少しきげんがよいときは、手や足をへし折るか、片耳をそぎ落とす・・・」
その源太夫が、ある時、お堂の坊さんの話を聞く、なんでも講師の僧は
「ここからはるか西の世界に、阿弥陀仏というみ仏がおいでになります。このみ仏は、み心がひろく、長年罪悪をかさねた人でも、反省して『南無阿弥陀仏』といっぺん唱えれば、必ずその人を許して、すばらしい極楽に生まれかわらせて、最後にはみ仏のひとりに加えてくださいます」と語る。
ここから、僧と源太夫のやりとりになり、その場で頭を剃り、すぐに出家をする。
それから、「おれはこれから西に向かって阿弥陀仏をお呼びし、金鼓(こんぐ)をたたいて、み仏のお答えが聞こえるところまでゆこうと思う。お答えがないかぎり、野山だろうが海川だろうがぜったいに引き返すまい。ひたすら向かった方向へ進んでゆくぞ」と語って、あとはその通り西へとまっすぐに行くのでした。この道行きがスカッと描かれているのでした。それは省略。
なぜこの個所を思い出したのかといいますと、
加藤秀俊著「メディアの発生」に補陀落渡海のことが出て来るからなのでした。
ということで「メディアの発生」から、そうたとえば『足摺』の個所
「『足摺』といえば四国の足摺岬を連想する。ずいぶんむかしのことになるが、わたしはこの足摺岬まででかけたことがある。ここには四国八十八ヵ所三十八番札所の金剛福寺というのがあるが、注意してみると、ここに『補陀落東門』という勅額がかかっていることに気がつく。つまり、四国最南端の足摺岬も補陀落渡海の聖地だったのである。例の『とはずがたり』によると、ここはむかし住職とふたりのがいたが、ゆえあってはともにここから小舟に乗って補陀落渡海をしてしまった。それを惜しんで老僧が岬の突端で『足摺』したのがその地名の由来だという。・・・
田宮虎彦の小説『足摺岬』の主題も入水自殺への願望をもった青年がその主人公だった。そこでめぐりあうのは戊辰戦争で生き残った老人、そして第二次大戦で生き残った若者・・・いずれも死に直面した経験を共有している。主人公はこうした人物と出会いながら生と死のはざまをかんがえるのである。おそらく、ここから補陀落渡海を実行した僧侶や遍路もすくなくなかったのであろう。いまも足摺岬灯台の立つ断崖は自殺の名所になっているようだ。すぐ目のまえに『死』があり、思いとどまれば『生』がある。そこでのためらいが『足摺』なのである。俊寛は結局、断食往生の道をえらんだが、それも『足摺』の葛藤あってのこと。」(p321~322)
そして、
「鎌倉武士にゆかりのある坂東三十三観音はまず鎌倉の杉本寺にはじまり、神奈川県下を一巡し、埼玉県を経由して東京にはいる。浅草の観音さまは十三番の札所である。巡礼はそこから群馬、栃木、茨城、千葉と関東平野を時計まわりに一巡してさいごの三十三番は千葉県館山の補陀洛山那古寺。なるほど、補陀落はここ房総半島にもあったのである。」(p467)
ちなみに、房総の那古寺の下は、元禄地震や関東大震災によって、二度も隆起しており、住宅地の先のほうに海がありまして、補陀洛山の下が砂浜で、波が打ち寄せる、というおもかげは今はありません。もっとも、そこから沈んでゆく夕日をながめるのはよいだろうなあと思います。
そして、地震について調べると、元禄のころの地震で那古寺がくずれ、その再建のために江戸の浅草で那古観音のご開帳をして資金を捻出したという記録がある。なるほど、坂東三十三観音のつながりがツテとなっていたのですね。浅草でご開帳の間に立った人が一銭も貰わなかったそうです。合点しました。
杉浦氏は、その文庫の最初を「悪人往生」という物語からはじめておりました。
ちょっと、他の少年少女用の本「今昔ものがたり」では、それがみあたらない。
どうして杉浦氏は、この物語を最初にもってきたのか。
杉浦氏はあとがきで、「この本の始めの五篇は、本朝仏法部から撰り出した作品です。中でも巻頭の一篇【悪人往生】は胸のすかっとするほど気持ちがよいとは思いませんか。・・」とあります。これが今昔物語のどれなのか、わからないでいたのですが、現代教養文庫の西尾光一著「今昔物語 ― 若い人への古典案内」をなにげなく開いたらありました。テーマ別の「出家の機縁」というところに入っていました。巻十九の第十四話「讃岐の源太夫の出家」。題は「悪人往生」とは違っておりました。それで題名だけからでは見つけられなかったのだとガテン。それは香川県の豪族・源太夫という生まれつき荒っぽくて、「殺生をこのうえなく愛好し、村のならずものを手下にして、朝から晩まで山野を駆けまわっては、鹿や鳥を打ち殺し・・・親兄弟や夫がさからえば、鹿や猪と同じように、あっさり射殺したり、首を斬って平気だった。少しきげんがよいときは、手や足をへし折るか、片耳をそぎ落とす・・・」
その源太夫が、ある時、お堂の坊さんの話を聞く、なんでも講師の僧は
「ここからはるか西の世界に、阿弥陀仏というみ仏がおいでになります。このみ仏は、み心がひろく、長年罪悪をかさねた人でも、反省して『南無阿弥陀仏』といっぺん唱えれば、必ずその人を許して、すばらしい極楽に生まれかわらせて、最後にはみ仏のひとりに加えてくださいます」と語る。
ここから、僧と源太夫のやりとりになり、その場で頭を剃り、すぐに出家をする。
それから、「おれはこれから西に向かって阿弥陀仏をお呼びし、金鼓(こんぐ)をたたいて、み仏のお答えが聞こえるところまでゆこうと思う。お答えがないかぎり、野山だろうが海川だろうがぜったいに引き返すまい。ひたすら向かった方向へ進んでゆくぞ」と語って、あとはその通り西へとまっすぐに行くのでした。この道行きがスカッと描かれているのでした。それは省略。
なぜこの個所を思い出したのかといいますと、
加藤秀俊著「メディアの発生」に補陀落渡海のことが出て来るからなのでした。
ということで「メディアの発生」から、そうたとえば『足摺』の個所
「『足摺』といえば四国の足摺岬を連想する。ずいぶんむかしのことになるが、わたしはこの足摺岬まででかけたことがある。ここには四国八十八ヵ所三十八番札所の金剛福寺というのがあるが、注意してみると、ここに『補陀落東門』という勅額がかかっていることに気がつく。つまり、四国最南端の足摺岬も補陀落渡海の聖地だったのである。例の『とはずがたり』によると、ここはむかし住職とふたりのがいたが、ゆえあってはともにここから小舟に乗って補陀落渡海をしてしまった。それを惜しんで老僧が岬の突端で『足摺』したのがその地名の由来だという。・・・
田宮虎彦の小説『足摺岬』の主題も入水自殺への願望をもった青年がその主人公だった。そこでめぐりあうのは戊辰戦争で生き残った老人、そして第二次大戦で生き残った若者・・・いずれも死に直面した経験を共有している。主人公はこうした人物と出会いながら生と死のはざまをかんがえるのである。おそらく、ここから補陀落渡海を実行した僧侶や遍路もすくなくなかったのであろう。いまも足摺岬灯台の立つ断崖は自殺の名所になっているようだ。すぐ目のまえに『死』があり、思いとどまれば『生』がある。そこでのためらいが『足摺』なのである。俊寛は結局、断食往生の道をえらんだが、それも『足摺』の葛藤あってのこと。」(p321~322)
そして、
「鎌倉武士にゆかりのある坂東三十三観音はまず鎌倉の杉本寺にはじまり、神奈川県下を一巡し、埼玉県を経由して東京にはいる。浅草の観音さまは十三番の札所である。巡礼はそこから群馬、栃木、茨城、千葉と関東平野を時計まわりに一巡してさいごの三十三番は千葉県館山の補陀洛山那古寺。なるほど、補陀落はここ房総半島にもあったのである。」(p467)
ちなみに、房総の那古寺の下は、元禄地震や関東大震災によって、二度も隆起しており、住宅地の先のほうに海がありまして、補陀洛山の下が砂浜で、波が打ち寄せる、というおもかげは今はありません。もっとも、そこから沈んでゆく夕日をながめるのはよいだろうなあと思います。
そして、地震について調べると、元禄のころの地震で那古寺がくずれ、その再建のために江戸の浅草で那古観音のご開帳をして資金を捻出したという記録がある。なるほど、坂東三十三観音のつながりがツテとなっていたのですね。浅草でご開帳の間に立った人が一銭も貰わなかったそうです。合点しました。