和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

受験と徒然草。

2009-12-04 | 古典
谷沢永一・渡部昇一対談「平成徒然談義」(PHP研究所)を読んでいたら、同じ二人の対談「読書談義」があったことを思い出しました。
そちらでは谷沢氏がこう語っておりました。


「日本の一番大事な古典で、これが読める注釈とか評釈というものだ、というのが今はほとんどないわけですよ。澤瀉久孝は沼波瓊音の『徒然草講話』を読んで国文学に志したんですが、明治大正期に沼波瓊音が果したような役割、古典の面白さへ一般読書人を深く誘いこむような精気のある評釈書が現在見当たらないのは、なんとしても淋しく残念ですね。昭和期の国文学が学者気取りにばかり気をとられていた結果でしょうか。」


この「読書談義」の最初の方にある対談箇所も引用したいのでした。

【谷沢】・・『伊勢物語』ならこれだという、そういう言い方でカチッと一つの大切なものを評価するというのが、前世代の学者の共通点でして、釈迢空の論説なんかいつもその点でくるわけですね。それが現在はどうも影をひそめたような感じがします。
【渡部】公平に並べてみて・・・
【谷沢】ええ、公平、公平(笑)。
【渡部】受験生的な態度ですね。受験だと無難な答案書かなきゃ点を引かれるという恐れがあるから、一つの説にコミットできないわけですね。
【谷沢】ぼくら、この分野あるいはこの著者について一番大切なのは、この一声、この本だという言い方が体質的に好きなんですが、それを大学の講義なんかでやる人が少ないんでしょう。

   ・・・・・・・

【渡部】それは結局、前にも言ったように受験参考書的なんです。試験のとき採点官が点が引けないような答案を書きたいわけです、要するに。・・・・・
ぼくらにはぴんとくるわけですね。日本文学史を全部自分で読んで公平にできるわけがない。上代では誰、近代では誰という発言の貴重さがわからない人間は、本当にやったことがない人なんでしょう。やったことのある人は、これは貴重なことをよく言ってくれた、普通は言わないことなんだけど、と思う。(笑)



ここで、「平成徒然談義」へともどります。そのp74に

【谷沢】そもそも近代以前の日本において、学問は人間の精神を養うためのものでした。つまり、人間学、社会学のテキストとして『論語』を筆頭に漢籍を読んだわけです。一方、チャイナで四書五経を学ぶのは、科挙に受かって高級官僚になるためでした。学ぶ姿勢が違うと、当然ながら同じ漢籍を読んでも、違う結論にいたります。


チャイナの科挙が、今の日本の受験勉強の弊害とダブってくるようです。
すこしまえに、こんな箇所(p73)


【渡部】わが身を振り返ると、端から見たら、われわれだってそうかもしれません。いい歳をして、受験参考書によく出てくる『徒然草』を種にしゃべっているのは浅ましいとか(笑)。
【谷沢】そうです。『あいつら、何がしたいのか』と端から思われることは十分覚悟しないといけませんね。いまは受験勉強が、学問することだという勘違いも多いですし、『徒然草』を読んだのは受験のためという人が多いでしょうからね。



ここで思い浮かんだのは、原田種成著「漢文のすすめ」(新潮選書)でした。
そこに
「私は試験というものは、その範囲の中で一番大切なところ、一生涯覚えておく価値のあるところを出題すべきであると考え、また、実際、私の出題はそれに徹していた。それが教育であると信じている。」(p143)という言葉がある。
ここまでは、一生涯の精神を養うにたる古典を教えるという矜持があったわけです。ちなみに原田種成氏は1911年生まれ。

コメント
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