外山滋比古氏の本を、今何冊かめくっているところ。
寺田寅彦の随筆をほめていた、その外山氏の随筆を読んでいるわけです。面白いなあ。何にたとえればよいのやら。たとえば高浜虚子の五百句を思い浮かべます。とにかく期間をくぎって五百句を並べてある。良い悪いは別にして、それを読んでいると、時にこれはと思う句にぶつかる。秀句ばかり読んでいては味わえない醍醐味。それも、読み終わるころには、いつのまにやら虚子の世界に参入していることに気づかされる按配。
さて、随筆としての外山滋比古氏の文を読んでいると、短いながら時としてハッとさせられる文に遭遇するわけです。でも、それだけを取り上げてみても、一般の方には、けっこう説明がいるかもわからないなあ。と思ってしまう。けれども、読んでいると、なるほどなるほどと思わずにはいられないのでした。
そうこうして、少しずつですが、本を開いていたら、
「日本語の感覚」に「書評・考」という文があった。
中公叢書にして15ページ。うん。こういうのを読みたかったという書評に関する重要な指摘がなされておりました。ちなみに、この文が雑誌に書かれたのは1975年。その当時の書評の様子を語りながらの、あるべき書評の姿を、外国の様子をまじえながら語ってゆくのでした。あれこれと引用していたら全部になってしまうので(笑)。ここではすこし。
「書評は選ぶことでもある。おびただしく出版される本の中からほんのひとにぎりの本だけが書評を受ける幸福に恵まれる。どれを選ぶかは、ときに、どういう批評をするか以上に大きな意味をもっている。現在のところ、どの本を書評するかは、編集部できめられる場合が多い・・・・しかし、選ぶことの意味は実に思い。歴史はきわめて多くの選択によって決定される流れだとすら言える。選ぶ哲学がなくて選んでいることが多いが、批評の条件としても選択を没却することは許されない。・・」(p155・中公叢書)
うん。それにしても、この「書評・考」が読めただけでも、
外山滋比古著「日本語の感覚」を読めてよかった。
そう。そこだけしか読んでないのですけれど(笑)。
けど。書評に感心がある方には必読のエッセイ。
だと。私は思っております。
また。読み直そっと。
寺田寅彦の随筆をほめていた、その外山氏の随筆を読んでいるわけです。面白いなあ。何にたとえればよいのやら。たとえば高浜虚子の五百句を思い浮かべます。とにかく期間をくぎって五百句を並べてある。良い悪いは別にして、それを読んでいると、時にこれはと思う句にぶつかる。秀句ばかり読んでいては味わえない醍醐味。それも、読み終わるころには、いつのまにやら虚子の世界に参入していることに気づかされる按配。
さて、随筆としての外山滋比古氏の文を読んでいると、短いながら時としてハッとさせられる文に遭遇するわけです。でも、それだけを取り上げてみても、一般の方には、けっこう説明がいるかもわからないなあ。と思ってしまう。けれども、読んでいると、なるほどなるほどと思わずにはいられないのでした。
そうこうして、少しずつですが、本を開いていたら、
「日本語の感覚」に「書評・考」という文があった。
中公叢書にして15ページ。うん。こういうのを読みたかったという書評に関する重要な指摘がなされておりました。ちなみに、この文が雑誌に書かれたのは1975年。その当時の書評の様子を語りながらの、あるべき書評の姿を、外国の様子をまじえながら語ってゆくのでした。あれこれと引用していたら全部になってしまうので(笑)。ここではすこし。
「書評は選ぶことでもある。おびただしく出版される本の中からほんのひとにぎりの本だけが書評を受ける幸福に恵まれる。どれを選ぶかは、ときに、どういう批評をするか以上に大きな意味をもっている。現在のところ、どの本を書評するかは、編集部できめられる場合が多い・・・・しかし、選ぶことの意味は実に思い。歴史はきわめて多くの選択によって決定される流れだとすら言える。選ぶ哲学がなくて選んでいることが多いが、批評の条件としても選択を没却することは許されない。・・」(p155・中公叢書)
うん。それにしても、この「書評・考」が読めただけでも、
外山滋比古著「日本語の感覚」を読めてよかった。
そう。そこだけしか読んでないのですけれど(笑)。
けど。書評に感心がある方には必読のエッセイ。
だと。私は思っております。
また。読み直そっと。