外山滋比古著「思考の整理学」に書かたテーマの「卒業論文」に、私は興味を持ちました。それからしばらくして、外山滋比古著「知的創造のヒント」をめくると、9章「酒を造る」に同じテーマが取り上げられてる。そういえば「思考の整理学」ではⅡ章の「醗酵」という箇所が卒論を語っていた。「酒を造る」と「醗酵」というのが面白いなあ。ということで、「酒を造る」から引用。
「一度恥を忘れてしまえば、二度目からは罪の意識はなくなってくれる。それをいいことにして、毎年毎年、年中行事のように、春になると、どうすれば論文が書けるかを話したものだ。論文の書き方というと、形式のことを連想する学生が多いので、表現に至る思考法といったきざな題にしたこともある。英文科三年の演習の時間を一回つぶして、百分間の話をするならわしになっていた。これが学生の間で話題になっているという噂をきいたことがある。こういう恥さらしなことをあえてする教師はめったにいない。珍しいから話題になったのであろう。・・・」
う~ん。結局は、この毎年の演習をつぶしての講義が、熟して、ある日「思考の整理学」として結実したという道筋が見えてくるように感じられます。「あえてする教師」が他にいなかったのでしょう、そう思ってみると「思考の整理学」のロングセラーが理解できるような気がしてきます。
ということで、ここでは引用文にある「恥さらしなこと」の道筋を、ちょっと本文にそって辿ってみたいと思います。「酒を造る」の導入部が、ステキなのです。
こうはじまります。
「イギリスの詩人のロバート・グレイヴズが、詩作では食っていけないのは、昔も今も変わりがない、身過ぎ世過ぎのために心に染まぬ仕事もしなければならないが、下手なことをすると肝心な詩が書けなくなってしまう、とのべているのを読んだことがある。」
その下手な仕事に、教師があがっていたというのです。
「教師は知りもしないことを知ったかぶりをしないと毎日が過ぎていかない。これほど創造にとって有害なことはすくないのだから、詩人たらんとするものは教職に近づかぬことだ。そういうグレイヴズの意見を読んで、やがて思い当たることにぶつかった。」
こうして、ご自身の経験をかたるのは、卒論は学生ばかりじゃないのだと、ご自身に鑑みておられる誠実さが、丁寧な言葉からにじんでくるようです。
ではその箇所を引用。
「学生に論文を書かせるのだから、指導をしなくてはならない。たいていの大学で論文指導といった題目の講義か演習が開かれている。これが問題である。論文を書くのが当り前になっている専門なら、かくすればかくかくの論文ができ上る、と実地教育ができるであろう。自信のある教師なら、自分の論文を模範として提示してもいい。ところが、そうはいかないことが多いから苦労する。
だいたい外国文学では言葉を何とか読みこなすのにひどく時間と労力をとられるから、論文めいたものすら書く余力が残らないことがすくなくない。何年に一篇でも書けたら奇特というべきである。かつては論文などひとつもなくても大学者でありえたものだ・・・・泣く泣くではないにしても、渋々『論文』を作らなくてはならなくなったというのが正直なところである。とても胸を張って我に続けなどといえるわけがない。
納得がいかないことはいっさいご免こうむる、といったことが通用するほど、世の中は甘くない。学生諸君にはすこしでもいい論文を書いてもらいたいという親心もある。自分にはうまく書く自信はないのに、論文作成の方法を教えなくてはならないという破目に陥る。やはり教師にはなるものではない、というグレイヴズの言を思い浮かべて、情けない気持になることがある。切羽つまれば窮余の策も浮かんでくるものらしく、野球をしたことのない野球監督や、創作の経験のない批評家の有効性などを引き合いに出して、自分をはげまし、何とか論文の書き方を教えようと決心する。私もそうであった。もう二十年くらい前のことである。」
こうして、私がはじめに引用した箇所へと続くのでした。
ちなみに、この外山滋比古著「知的創造のヒント」(講談社現代新書)は最初は昭和52年に出版されておりました。
さて、12月ですね。忘年会シーズン。私も飲み会が土日。5日・6日とつづきます。
飲みながら、この外山滋比古の「酒を造る」・「醗酵」が思い浮かんだりして(笑)。
「一度恥を忘れてしまえば、二度目からは罪の意識はなくなってくれる。それをいいことにして、毎年毎年、年中行事のように、春になると、どうすれば論文が書けるかを話したものだ。論文の書き方というと、形式のことを連想する学生が多いので、表現に至る思考法といったきざな題にしたこともある。英文科三年の演習の時間を一回つぶして、百分間の話をするならわしになっていた。これが学生の間で話題になっているという噂をきいたことがある。こういう恥さらしなことをあえてする教師はめったにいない。珍しいから話題になったのであろう。・・・」
う~ん。結局は、この毎年の演習をつぶしての講義が、熟して、ある日「思考の整理学」として結実したという道筋が見えてくるように感じられます。「あえてする教師」が他にいなかったのでしょう、そう思ってみると「思考の整理学」のロングセラーが理解できるような気がしてきます。
ということで、ここでは引用文にある「恥さらしなこと」の道筋を、ちょっと本文にそって辿ってみたいと思います。「酒を造る」の導入部が、ステキなのです。
こうはじまります。
「イギリスの詩人のロバート・グレイヴズが、詩作では食っていけないのは、昔も今も変わりがない、身過ぎ世過ぎのために心に染まぬ仕事もしなければならないが、下手なことをすると肝心な詩が書けなくなってしまう、とのべているのを読んだことがある。」
その下手な仕事に、教師があがっていたというのです。
「教師は知りもしないことを知ったかぶりをしないと毎日が過ぎていかない。これほど創造にとって有害なことはすくないのだから、詩人たらんとするものは教職に近づかぬことだ。そういうグレイヴズの意見を読んで、やがて思い当たることにぶつかった。」
こうして、ご自身の経験をかたるのは、卒論は学生ばかりじゃないのだと、ご自身に鑑みておられる誠実さが、丁寧な言葉からにじんでくるようです。
ではその箇所を引用。
「学生に論文を書かせるのだから、指導をしなくてはならない。たいていの大学で論文指導といった題目の講義か演習が開かれている。これが問題である。論文を書くのが当り前になっている専門なら、かくすればかくかくの論文ができ上る、と実地教育ができるであろう。自信のある教師なら、自分の論文を模範として提示してもいい。ところが、そうはいかないことが多いから苦労する。
だいたい外国文学では言葉を何とか読みこなすのにひどく時間と労力をとられるから、論文めいたものすら書く余力が残らないことがすくなくない。何年に一篇でも書けたら奇特というべきである。かつては論文などひとつもなくても大学者でありえたものだ・・・・泣く泣くではないにしても、渋々『論文』を作らなくてはならなくなったというのが正直なところである。とても胸を張って我に続けなどといえるわけがない。
納得がいかないことはいっさいご免こうむる、といったことが通用するほど、世の中は甘くない。学生諸君にはすこしでもいい論文を書いてもらいたいという親心もある。自分にはうまく書く自信はないのに、論文作成の方法を教えなくてはならないという破目に陥る。やはり教師にはなるものではない、というグレイヴズの言を思い浮かべて、情けない気持になることがある。切羽つまれば窮余の策も浮かんでくるものらしく、野球をしたことのない野球監督や、創作の経験のない批評家の有効性などを引き合いに出して、自分をはげまし、何とか論文の書き方を教えようと決心する。私もそうであった。もう二十年くらい前のことである。」
こうして、私がはじめに引用した箇所へと続くのでした。
ちなみに、この外山滋比古著「知的創造のヒント」(講談社現代新書)は最初は昭和52年に出版されておりました。
さて、12月ですね。忘年会シーズン。私も飲み会が土日。5日・6日とつづきます。
飲みながら、この外山滋比古の「酒を造る」・「醗酵」が思い浮かんだりして(笑)。