和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

書簡文講話。

2009-12-14 | 手紙
外山滋比古の「ことばの教養」「文章を書くこころ」とパラパラめくっていたら、書簡についての興味がわきました。

話はかわりますが、以前読んだ本を破棄したりして、本棚にはこれから読みたい本をならべていたことがありました。まあ、今も一度読んだ本というのは、塵をかぶって読まずにいるわけで、そのままに打ち捨ててあるのと同様な感じではあります。
ただ、やっぱりもう一度読みたいという本は、本棚に置くようにはしております。

さて、書簡文ということで、思い浮かぶあれこれ。
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)に

「文章のイロハを学びたいという方は、いろいろなチャンスを利用して、精々、手紙を書いた方がよいと思います。電話で用が足りる場合でも、手紙を書くべきでしょう。面倒だ、というのですか。いや、本当に面倒なもので、私にしても、毎月の原稿が一通り済んでから、まるまる一日を使って、何通かの手紙を書くことにしています。原稿料とは関係ありませんが、実際、手紙を書くのは一仕事です。しかし、それも面倒だ、というようでは、文章の修業など出来たものではありません。」(p68)

ところで、手紙ということで、何を読んだらよいか?

向井敏著「本のなかの本」に、中野重治著「本とつきあう法」を紹介した見開き二ページの文が入っております。そこで向井氏は、中野重治が芳賀矢一・杉谷代水著「作文講話及文範」、「書簡文講話及文範」という二冊に触れた章をとりあげているのでした。

「文章と手紙の書き方を説いたこの古い二冊の本のために、中野重治はその美質を簡潔的確に評したうえ、書評史上まれに見るすばらしい言葉を捧げた。その頌辞に親しく接するだけのためにも、この本はひもとくに値する。いわく、
  『ああ、学問と経験とのある人が、
材料を豊富にあつめ、手間をかけて、
実用ということで心から親切に書いてくれた
通俗本というものは何といいものだろう。』            」


ここまでくれば、中野重治著「本とつきあう法」の、その箇所を読みたくなるじゃありませんか。そこで重治は


「芳賀とか杉谷とかいう人がどんな人か知らぬ人でも、二冊のうちどつちか一冊を読めば、二人の学者がどれほど実地ということを腹において、少しでもヨリよくということを目安にして、善意をかたむけてこの本をつくつたかが流れこむように心に受け取られてくる。四十年ぐらいまえに書かれているから古いといえば古い。とはいつても、日本語・日本文がそれほど変つたわけではない。またこういつたものは、ある意味では古いものがいいためにこの本がいいのだ。・・・・『作文』の方は千三百ページほど、『書簡文』の方は千ページほどあり、それぞれ七百ページ、六百五十ページほどが『文範』つまり実例になつていてこれがおもしろい。・・・・」

  ちなみに、この文の発表は1953年とあります。
  そして、向井敏が引用した最後の箇所をもう少し丁寧に引用しておきます。

「ああ、学問と経験とのある人が、材料を豊富にあつめ、手間をかけて、実用ということで心から親切に書いてくれた通俗の本というものは何といいものだろう。僕はこれを刑務所の官本で楽しんで読み、出てから古本屋で見つけて今に愛蔵している。僕の待つているのは縮刷版だ。発行は冨山房だ。」



そうして、私は「作文講話及文範」「書簡文講話及文範」を古本で購入してあったわけです。
ちなみに「作文講話及文範」は、一時文庫に入っておりました。私といったら、そのどちらも中野重治が感銘した「文範」としての実例を読まずに、そそくさと、講話を速読して本棚にしまいこんでおりました。いつか読もうとおもいながら、もう古本の上に、塵が積もっております。

と、もう一度、この二冊にチャレンジのつもりで、書き込んでおります。いつも途中で挫折する。せめて、本棚から取り出して再読の始まりだけは記しておきたいじゃありませんか。まあ、そんな感じの埃をはらいながらの書き込みです。
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