和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

そして、概論は。

2009-12-06 | 古典
今年読んだ本で、私は加藤秀俊著「メディアの発生」(中央公論新社)に惹かれました。
さて、それをどうお薦めすればよいのやら(ここで、その本を味わうことをしないで、お薦めしようとするのが、ちょっと私の方向性としてどうかなあと思うところなのですが、まあそれはそれとして)。

すると、谷沢・渡部対談「平成徒然談義」を読んでいる時に、このお薦めにふさわしい言葉をみつけたりするのでした。ということで引用。


【渡部】たとえば、大学の講義でも、いいイントロダクションをやってくれる先達は『あらまほしき』です。最初にドイツへ留学したとき、留学先の先生に言われたことがあります。それは、『ドイツの講義は必ずしも深いことを言わないけれど、本当のチチェローネ(先達)をやるのだ』というようなことでした。英文学史などはつまらなければ限りなくつまらない。しかし、力のある人がやると『ああ、この本を読んでみたい』というふうに刺激されます。
それを最も実感したのは、上智大学で竹下数馬先生から江戸文学の講義を受けたときのことです。あれで日本文学に一つの道をつけてもらったと感謝しています。たとえば、与謝蕪村の講義では、萩原朔太郎の『郷愁の詩人 与謝蕪村』を挙げられ、・・・
いまは狭い専門分野を教えるのが偉い先生のようになっています。しかし、本当はその逆です。むしろ学部の専門的な講義は若い人が研究していることを教えたほうがいいかもしれない。そして、概論は、一番力のある先生がやるべきです。六十ぐらいにならないと、いろいろな本を読んでいませんからね。ヴィンデルバントの西洋近世哲学史などは、本当にすごいものです。
【谷沢】おっしゃる通りです。概論は、本当に実力のある学者がやるべきものです。京大の宮崎市定は概論ならどの時代も全部やってみせると言って、事実やってみせました。東大も昔はそうだったのですが、いつからか、おかしくなってしまった。概論は、『こういう意見がある』『こういう見解がある』『こんな見方がある』ということが大事です。それを『私はこう思うので・・・』とやられてしまったら、チチェローネになりません。(p32~34)


さてっと、加藤秀俊氏は「メディアの発生」のあとがきで
「これはわたしの八十代へむけての卒業論文のようなものだ、とじぶんではおもっている」と書いておりました。なぜ卒業論文なのか。いまなら私は谷沢永一氏が語る『概論は、本当に実力のある学者がやるべきものです』という言葉が浮かぶのでした。本当に実力のある学者が、八十代へむけての卒業論文を書かれた。そういう読みごたえを味わえる一冊が『メディアの発生』にはあります。
おおいそぎでつけくわえておけば、渡部氏の対談での言葉に
「ハイデッガーを専門にする哲学者の木田元は・・・晩年、ハイデッガーの大学講義録を読んだら本当にわかったという趣旨のことを言っています。日本には講義でノートを読む先生もいるけれど、向こうの講義は聞いていてエッセンスがわかるようでなければならず、いわば講演のような感じになります。・・」(p34~35)


そうなんです。加藤秀俊著「メディアの発生」は、概論であり、卒業論文であり、いわば講演のような感じなのであります。といいつつ、私はまだろくすっぽ『メディアの発生』を読みかえしていないのでした。
コメント
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