徳岡孝夫著「五衰の人」(文春文庫)の
著者による「文庫版へのあとがき」によると、
「私は、それまで神風連と三島さんの関係を、小説家と小説の材料という通り一遍のものと思ってきたのを恥じた。三島事件を一から書き直すべきだと感じた。しかし、それを実行するには、私には力量と時間がない。やむを得ず、単行本を少し手直しして本書とした。編集の労をとって下さった文芸春秋の照井康夫氏に深く感謝する。」
うん。どうやら、単行本と文庫では、ちょっと違うらしい。
ところで、この文庫の解説を関川夏央氏が書いているのですが、
その最後から
「『五衰の人』をすぐれた歴史の記述としたのみならず、現代日本語表現者中第一級の完成された作家(オーサー)としての徳岡孝夫の姿を、私たちにあざやかに印象づけたのである。」
ちょっと私は古本でも手に入らなかった徳岡孝夫著「覚悟すること」の引用もでてきておりました。
「何かの事件を自転車で取材に行った。そして書いた記事の最後に『警察は鋭意捜査中』と書いたんですね。そのころの決まり文句です。そしたらデスクが、『おい、どれくらい鋭意に捜査してるんだ』と聞いたんです。『どれほど鋭意にと言ったって、そりゃあデスク、一生懸命やってます』と答えたら、『どれほど一生懸命やってるんだ』と畳みかけてくる。『いや、それはちょっと・・・』『そうか』ってやりとりがあって、デスクはその部分を削ったんです」(「覚悟すること」)
そして関川氏はこうつけくわえます。
「彼はそれ以来、新聞記者に独特のクリシェ(決まり文句)を使うことはなかった。思想の流行に流されることなく『王様は裸だ』と見とおして、事実の報告に徹しようとする姿勢は、こんなふうに鍛えられた。」
「・・・・帰国して大阪本社社会部に戻ったが、三十なかばではじめて箱根を越えて東京へ移り、『サンデー毎日』編集部に移籍した。彼自身が望んだことだが、当時の新聞界にはおなじ社内でも週刊誌を見くだす空気があり(いまもある)、いわば『積極的に身を落とした』のだった。それは、『えらそうなことはいわない』と自らを強く律する態度、ひるがえっていえば、『えらそうな作文をする』記者を鋭く批評する精神のありかたを体現し、新聞記者時代から作家となった現代まで、彼の方法を脈々とつらぬいている。」
「・・・『文学界』連載は95年秋からであるが、折りしもそれが決まったちょうどそのとき、徳岡孝夫は思いもかけぬ眼底出血に見舞われ、それ以前の脳腫瘍手術で大きく阻害されていた視力は、ますます弱まった。家人の朗読に頼る以外は『新しい資料は大半を捨て』『自分の記憶に頼って』書くことになり・・・しかしそのことがこの本をさらに『文学論』から遠ざけ、むしろ対象との間に、親しみと礼節とが適切に維持されるほどの距離を生じさせることに寄与した。すなわち、『事実を報告する』という古典的正統的な新聞記者の精神が再び光彩を帯びて立ち上がったのである。徳岡孝夫は『五衰の人』で『面白い人』三島由紀夫との交情について文飾なく語った。三島由紀夫の戦中派としての心象の出発点と変遷について、根拠ある忖度(そんたく)を書いた。その結果、意図したことではないにしろ、『昭和の看板を借りて店を張り、曲りなりにも人生稼業を営んできた』『昭和の子』(「戦争屋」の見た平和日本)である自分と、その戦後観について語ることにもなった。・・・96年、この『五衰の人』でも・・評伝と自伝を融合結晶させて、冷静に感動的な作品を書きあげた。『五衰の人』は、読者に、事件当時の年齢を問わず、歴史を共有できたと強く感じさせる作品である。近代文学を愛し、しかし近代文学に泥(なず)むことを自らに強くいましめ、さらに、『正義の人』に堕さぬために事実の記述を第一義としつつ、同時に『一概にはいえない』と現場でためらい懐疑する新聞記者の実情をも忘れないという著者の姿は・・・」
ついつい、解説の引用を重ねてしまいました。
おいおい、私は単行本「五衰の人」の何を読んでいたのだろうと、恥ずかしくなってきます。ということで、105円で買った文庫本の解説しか読んでないのですが、収穫がありました。
著者による「文庫版へのあとがき」によると、
「私は、それまで神風連と三島さんの関係を、小説家と小説の材料という通り一遍のものと思ってきたのを恥じた。三島事件を一から書き直すべきだと感じた。しかし、それを実行するには、私には力量と時間がない。やむを得ず、単行本を少し手直しして本書とした。編集の労をとって下さった文芸春秋の照井康夫氏に深く感謝する。」
うん。どうやら、単行本と文庫では、ちょっと違うらしい。
ところで、この文庫の解説を関川夏央氏が書いているのですが、
その最後から
「『五衰の人』をすぐれた歴史の記述としたのみならず、現代日本語表現者中第一級の完成された作家(オーサー)としての徳岡孝夫の姿を、私たちにあざやかに印象づけたのである。」
ちょっと私は古本でも手に入らなかった徳岡孝夫著「覚悟すること」の引用もでてきておりました。
「何かの事件を自転車で取材に行った。そして書いた記事の最後に『警察は鋭意捜査中』と書いたんですね。そのころの決まり文句です。そしたらデスクが、『おい、どれくらい鋭意に捜査してるんだ』と聞いたんです。『どれほど鋭意にと言ったって、そりゃあデスク、一生懸命やってます』と答えたら、『どれほど一生懸命やってるんだ』と畳みかけてくる。『いや、それはちょっと・・・』『そうか』ってやりとりがあって、デスクはその部分を削ったんです」(「覚悟すること」)
そして関川氏はこうつけくわえます。
「彼はそれ以来、新聞記者に独特のクリシェ(決まり文句)を使うことはなかった。思想の流行に流されることなく『王様は裸だ』と見とおして、事実の報告に徹しようとする姿勢は、こんなふうに鍛えられた。」
「・・・・帰国して大阪本社社会部に戻ったが、三十なかばではじめて箱根を越えて東京へ移り、『サンデー毎日』編集部に移籍した。彼自身が望んだことだが、当時の新聞界にはおなじ社内でも週刊誌を見くだす空気があり(いまもある)、いわば『積極的に身を落とした』のだった。それは、『えらそうなことはいわない』と自らを強く律する態度、ひるがえっていえば、『えらそうな作文をする』記者を鋭く批評する精神のありかたを体現し、新聞記者時代から作家となった現代まで、彼の方法を脈々とつらぬいている。」
「・・・『文学界』連載は95年秋からであるが、折りしもそれが決まったちょうどそのとき、徳岡孝夫は思いもかけぬ眼底出血に見舞われ、それ以前の脳腫瘍手術で大きく阻害されていた視力は、ますます弱まった。家人の朗読に頼る以外は『新しい資料は大半を捨て』『自分の記憶に頼って』書くことになり・・・しかしそのことがこの本をさらに『文学論』から遠ざけ、むしろ対象との間に、親しみと礼節とが適切に維持されるほどの距離を生じさせることに寄与した。すなわち、『事実を報告する』という古典的正統的な新聞記者の精神が再び光彩を帯びて立ち上がったのである。徳岡孝夫は『五衰の人』で『面白い人』三島由紀夫との交情について文飾なく語った。三島由紀夫の戦中派としての心象の出発点と変遷について、根拠ある忖度(そんたく)を書いた。その結果、意図したことではないにしろ、『昭和の看板を借りて店を張り、曲りなりにも人生稼業を営んできた』『昭和の子』(「戦争屋」の見た平和日本)である自分と、その戦後観について語ることにもなった。・・・96年、この『五衰の人』でも・・評伝と自伝を融合結晶させて、冷静に感動的な作品を書きあげた。『五衰の人』は、読者に、事件当時の年齢を問わず、歴史を共有できたと強く感じさせる作品である。近代文学を愛し、しかし近代文学に泥(なず)むことを自らに強くいましめ、さらに、『正義の人』に堕さぬために事実の記述を第一義としつつ、同時に『一概にはいえない』と現場でためらい懐疑する新聞記者の実情をも忘れないという著者の姿は・・・」
ついつい、解説の引用を重ねてしまいました。
おいおい、私は単行本「五衰の人」の何を読んでいたのだろうと、恥ずかしくなってきます。ということで、105円で買った文庫本の解説しか読んでないのですが、収穫がありました。