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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

伝習録。

2011-01-07 | 前書・後書。
中央公論新社「梅棹忠夫に挑む」(2008年)の序でとうの梅棹忠夫氏が書いておりました。

「わたしの米寿に際して、わかい友人がおいわいの会をひらいてくださるという。それを、パーティーなどで飲みくいの席におわらせてはざんねんであるとおもい、わたし自身をまないたに乗せて議論をしたらどうかと提案した。その結果、2008年6月1日に、大阪千里でわたしの米寿の記念シンポジウムというのがひらかれた。・・・盛大な討論会となった。わたしはほんとにうれしかった。この年になって、このような機会がめぐってこようとは、おもいもしなかった。・・・」



こういう発想はどこからくるのだろうなあ。
そういえば、梅棹忠夫・司馬遼太郎編「桑原武夫伝習録」(潮出版社)が思い浮かぶ。
その序文で梅棹氏は、こう書いておりました。

「『伝習』とは、師のおしえをうけて、まなぶこと、というほどの意であろう。『桑原武夫伝習録』というのは、桑原武夫から何をおしえられたか、何をまなんだか、それを各人の立場からしるしたものの集成ということになろう。桑原先生とは師弟関係とはいえぬ人たちも、何ごとかをこの巨人からおそわり、まなばれたはずである。その種々相がここにある。」

ということで、この本には、さまざまな方が書いておりましたが、
そういえば、加藤秀俊氏の文はなかった。

思い出すのは、「桑原武夫集 10」(岩波書店)。
そこには、さまざまな推薦文がまとめてあります。
その推薦文のなかに「近代化の思想家」という一文があります。
はじまりは、

「加藤秀俊は近代化日本を代表する思想家である。」

この1ページほどの文は、「加藤秀俊著作集」の推薦文。
それが、絶賛としか思えないほめ言葉で綴られているのでした。
せっかくですから、引用しておきます。


「・・近代化の成功なくして今日のわれわれの幸福な生活のありえないことは、加藤とともに、私の確認するところである。もちろん日本の近代化にも弱点はあるが、世界的にすばらしい点も少なくない。そのプラス面をもっとも見事に象徴しているのが加藤だといえる。
まず彼はたぐいなく勤勉である。しかもその勤勉は受身でなく主体的にして誠実である。人々の学説を鈍重に積みかさねるのではなく、つねに自分の目と足とで現地に現物を確かめてから聡明に料理する。」

うんうん。私は加藤秀俊著「メディアの発生」を読んで、この「つねに自分の目と足とで現地に現物を確かめてから聡明に料理する」という言葉を、あらてめて確認したような気がします。桑原武夫の推薦文をつづけます。

「勤勉の当然の帰結として彼は良質多産である。十二巻の著作集が彼が書いたものの半ばしか収めえていないというのは驚くべきエネルギーというほかはないが、その収録作品目次を眺めてさらに驚くことがある。それは表題に一つとして物ほしげな文学的なものがなく、すべて短く具体的なことである。彼の学問に甘さの情緒性がなく、取扱う対象は多方面にわたりながら、すべて澄明な意志によって統合されていることのあらわれといえる。」

まだ、つづくのですが、引用はこのへんで。

さて。と思うのです、それでは加藤秀俊氏は、
桑原武夫をどのように書いていたか。
それが「わが師わが友」にあるのでした。
以下引用が長くなります。

「・・・わたしの記憶が正しければ、桑原先生とさいしょに同席させていただく機会を得たのは、『日本映画を見る会』に参加したときであったようにおもう。この会は、要するに毎月一回、課題映画をきめ、それをみんなが見たうえで合評会をする、というのが趣旨で、メンバーは、人文の各部を問わないばかりか、誰でも入ってよろしい、ということになっていた。・・・」

ちょっと省略していきたいのですが、
これ、現在古本でしか読めないし、
(ネット上では、簡単に全文が読めます)
重要なところなので、引用しちゃいます。

「なぜこんな会ができたか、といえば、だいたい、インテリというものは、大衆なの人民だのと、えらそうなことを口にしながらも、映画を見るということになると(当時、テレビはまだなかった)、おおむね西洋の、それも芸術映画を見る傾向があり、ルネ・クレールがどうのとか、ハンフリー・ボガードだどうとか、結局はカタカナばかりの人名で映画論議をすることが多かったからである。ほんとうに大衆をうんぬんするのなら、西洋映画などと関係のない大衆文化の中に自らをひたしてみることがまずだいじであろう。そこで、きわめて大衆性の高い人気映画、たとえば大川橋蔵、中村錦之助、美空ひばり、などの主演するチャンバラ映画やメロドラマを見ることがこの会の特色になったのである。
合評会の会場は、あちこちにうごいたが、いちばん多く使われたのは『晦庵(みそかあん)』こと河道屋であったように思う。・・・・・この河道屋では、大げさにいうと現代日本思想史にのこすことのできるような大議論がいくたびとなくくりかえされたのであった。たとえば、映画『明治天皇と日露大戦争』をめぐって井上清、梅棹忠夫両氏のあいだでかわされた近代化論争、あるいは、『七人の侍』を素材にした河野健二先生の日本知識人論など、その場面さえ、いまになってもありありと思い出されるのである。
そういうとき、ごくあたりまえのようにわれわれが司会者として見做すのは桑原先生であった。先生は、きわめて率直、明快に自説を展開なさるとともに、議論が白熱しすぎると、その調整をはかってくださるのである。その調整能力は抜群であって、しかも、ユーモアがみごとに織りまぜられている。われわれの仲間には、ずいぶん頑固な人もいたけれども、だいたい、桑原先生の調整のまえにはカブトをぬぐのがふつうであった。・・・・」

これから、「京都と東京のちがい」という魅力あるスジ運びが展開してゆくのでした。ですが、これくらいで(笑)。おあとは、ネット上の加藤秀俊データベースでお読みください。
コメント
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