とじめ。
2011-01-04 | 詩歌
長谷川郁夫著「堀口大學 詩は一生の長い道」(河出書房新社)の序だけを読み。私は楽しめました(笑)。さてっと、話はそれます。A5判サイズで厚みが4.5センチの堂々とした本です。ちょうど、小沢書店の堀口大學全集と並べても高さがちょっと低いぐらいであとは同じように感じます。まあ、序だけしか読んでいなかったのですが、何と、14ページと15ページの間の谷間。「のど」と呼ぶのでしょうか。本のとじめの部分。そこが開いていたら、パックリと音ともに裂けてしまった。その間からガーゼの布のようなものが見えます。本の背とページとの間の「花ぎれ」というのでしょうか、そこの端が、うまく製本されていかなったようです。あれあれ、古本でもせっかくきれいな本だったのになあ。何だか、バラして分割しながら読みたくなるような誘惑にかられる割れ口です。
それはそうと、割れ口のすこし前のページに、堀口大學氏の詩がいくつか引用されており。そのひとつ「お目あて」が印象に残ります(p12)。
―― 現代詩?
―― 小さい! 小さい!
ボクの狙(ねら)いは
永遠の詩ですよ
これは、思潮社の現代詩文庫1019「堀口大學詩集」には、選ばれておりません(なんだか、現代詩文庫だから選ばれないのは当然のようにも思いえてきたりするのが妙です)。ちなみに、小沢書店の「堀口大學全集 1」を見ると、詩集「秋黄昏」にありました(p464)。全集1で「お目あて」のひとつ前の詩は「詩歌両刀」というのがありました。開いたついでに、それも引用。
詩歌両刀
鰻もうまいが
穴子もうまい
酒もうまいが
ビールもうまい
片よることは
ないと思うよ
余談ついでに(だんだんそれてゆくなあ)、
向井敏著「机上の一群」の題名について、
その本の後記にこうありました。
「・・『机上の一群』の総題を冠しました。『格別な一群の書物』を扱った本というほどの意味を寓したといっていえなくはないでしょうが、察せられるように、この題名、じつは堀口大學の訳詩集『月下の一群』からの借用です。あるいは、そのもじり。ひょっとして、盗用ということになるのかもしれません。・・・・・
上田敏の『海潮音』、永井荷風の『珊瑚集』、そして堀口大學の『月下の一群』、この三冊の訳詩集は内容のうえで傑出しているだけではありません、それぞれの題名がまたすばらしい。なかでも、『月下の一群』は奇蹟的な名品と呼ぶに値します。月の砂漠をゆく隊商。月光に濡れる花々。月下の無人の街の底を疾駆する何やらあやしげな一団。それは数かぎりないイメージをよびさまし、いちど知ったらまず忘れることができないでしょう。・・・」
さてっと、ことのついでに向井敏著「書斎の旅人」。
これ、中公文庫で持っていたのですが、気になって新潮社の単行本を手にしてみました。さまざまな書評の間、箸休めみたいにして、数ページ。数十ページごとに両面白紙のページが挟み込まれて、そのはじめの真ん中に数行の詩。たとえば単行本のp12には
言葉は浅く
意(こころ)は深く
堀口大學『わが詩法』
とあったりします。
ちなみに、単行本の方には、カバーの帯に短く
駄文には沈黙を。隠れた名文には盛大な拍手を!
カバーの後ろには、本のなかの「『あとがき』に代えて」の言葉とは、似ているのですが、ちょっと違う文が、真ん中に書き込まれておりました。せっかくですから、そこも引用。
「長いあいだ旅をしてきた。行く先々で心ひかれる男たち女たちに数知れず会い、夜を徹して盃をかわし合った。・・・・彼らとの歓談をひとり胸に秘めておくにしのびなくて、時折り、そのさまを短い文章に綴った。旅は旅でも、これは本のなかの旅である。その印象記は、ふつう書評と呼ばれるが、来る夜ごと、・・・小さい部屋を基地として、時空をこえる旅に出、その見聞を書きとめたときの心躍りを思えば、書評というより、これはやはり紀行と呼びたい気持が私にはある。」
「書斎の旅人」には、堀口大學全集についても書きこまれておりまして。
そこから、すこし。
「・・堀口大學がなくなって、ちょうど一年になる(昭和56年3月15日死去。享年89)。生前に企画された『堀口大學全集』(全9巻・補巻3・別巻1)の刊行がようやくはじまり、『訳詩Ⅰ』(第二巻)につづいて、さきごろ『詩・短歌』(第一巻)が出、詩人の全詩業を通覧する機会にめぐまれたことを喜びたい。・・・・」
うん。たしか私が堀口大學全集の第一巻を古本で購入したのは、向井さんのこれを読んでからでした。違うかなあ、丸谷才一氏の文を読んでからだったか、忘れました。
それはそうと、割れ口のすこし前のページに、堀口大學氏の詩がいくつか引用されており。そのひとつ「お目あて」が印象に残ります(p12)。
―― 現代詩?
―― 小さい! 小さい!
ボクの狙(ねら)いは
永遠の詩ですよ
これは、思潮社の現代詩文庫1019「堀口大學詩集」には、選ばれておりません(なんだか、現代詩文庫だから選ばれないのは当然のようにも思いえてきたりするのが妙です)。ちなみに、小沢書店の「堀口大學全集 1」を見ると、詩集「秋黄昏」にありました(p464)。全集1で「お目あて」のひとつ前の詩は「詩歌両刀」というのがありました。開いたついでに、それも引用。
詩歌両刀
鰻もうまいが
穴子もうまい
酒もうまいが
ビールもうまい
片よることは
ないと思うよ
余談ついでに(だんだんそれてゆくなあ)、
向井敏著「机上の一群」の題名について、
その本の後記にこうありました。
「・・『机上の一群』の総題を冠しました。『格別な一群の書物』を扱った本というほどの意味を寓したといっていえなくはないでしょうが、察せられるように、この題名、じつは堀口大學の訳詩集『月下の一群』からの借用です。あるいは、そのもじり。ひょっとして、盗用ということになるのかもしれません。・・・・・
上田敏の『海潮音』、永井荷風の『珊瑚集』、そして堀口大學の『月下の一群』、この三冊の訳詩集は内容のうえで傑出しているだけではありません、それぞれの題名がまたすばらしい。なかでも、『月下の一群』は奇蹟的な名品と呼ぶに値します。月の砂漠をゆく隊商。月光に濡れる花々。月下の無人の街の底を疾駆する何やらあやしげな一団。それは数かぎりないイメージをよびさまし、いちど知ったらまず忘れることができないでしょう。・・・」
さてっと、ことのついでに向井敏著「書斎の旅人」。
これ、中公文庫で持っていたのですが、気になって新潮社の単行本を手にしてみました。さまざまな書評の間、箸休めみたいにして、数ページ。数十ページごとに両面白紙のページが挟み込まれて、そのはじめの真ん中に数行の詩。たとえば単行本のp12には
言葉は浅く
意(こころ)は深く
堀口大學『わが詩法』
とあったりします。
ちなみに、単行本の方には、カバーの帯に短く
駄文には沈黙を。隠れた名文には盛大な拍手を!
カバーの後ろには、本のなかの「『あとがき』に代えて」の言葉とは、似ているのですが、ちょっと違う文が、真ん中に書き込まれておりました。せっかくですから、そこも引用。
「長いあいだ旅をしてきた。行く先々で心ひかれる男たち女たちに数知れず会い、夜を徹して盃をかわし合った。・・・・彼らとの歓談をひとり胸に秘めておくにしのびなくて、時折り、そのさまを短い文章に綴った。旅は旅でも、これは本のなかの旅である。その印象記は、ふつう書評と呼ばれるが、来る夜ごと、・・・小さい部屋を基地として、時空をこえる旅に出、その見聞を書きとめたときの心躍りを思えば、書評というより、これはやはり紀行と呼びたい気持が私にはある。」
「書斎の旅人」には、堀口大學全集についても書きこまれておりまして。
そこから、すこし。
「・・堀口大學がなくなって、ちょうど一年になる(昭和56年3月15日死去。享年89)。生前に企画された『堀口大學全集』(全9巻・補巻3・別巻1)の刊行がようやくはじまり、『訳詩Ⅰ』(第二巻)につづいて、さきごろ『詩・短歌』(第一巻)が出、詩人の全詩業を通覧する機会にめぐまれたことを喜びたい。・・・・」
うん。たしか私が堀口大學全集の第一巻を古本で購入したのは、向井さんのこれを読んでからでした。違うかなあ、丸谷才一氏の文を読んでからだったか、忘れました。