外山滋比古著「ゆっくり急ぐ」(毎日新聞社)を注文。
発行が2010年12月となっておりました。
ちなみに初出が1981年~1997年までの連載となっておりました。
新刊を買ってしまうのは、私がファンだから。
う~ん。追っかけのようにして、今回も
つい、新刊を買ってしまいました。
まあ、それはそれとして、この新刊の
最初は「立ち居ふるまい」という3ページの文。
はじまりは、
「人前での話は立ってする。腰をおろすようにとすすめられても従ったことはない。・・・学校の授業でも少人数のゼミなどでは立ったりしてはおかしいけれども、普通のクラスなら腰かけたりしない。立っていた方が力が入り、勢いもつくような気がする。」
さて、このすぐあとからが本題でした。
「だいぶ前のことになるが、ある歴史学者から、うちでは机に椅子はない。立って本を読む、立って原稿を書く。そのために机をとくべつに作ってある。立った方が仕事にはりがあるのだ、というような話をきいて、たまげたことがある。その人の書くものに独特な迫力があるのは、そうした書斎と無関係ではないのだろうと解釈した。・・・」
そういえば、外山滋比古著「ちょっとした勉強のコツ」(PHP文庫)には「いざ立て」という文が掲載されておりました。そのはじまりは
「講演をするとき、こちらが年をとっているからか、いたわるつもりであろうか、主催者が、どうか椅子に腰をかけてお話しになってください、などということがときどきある。もちろん、一度だって、腰かけて講演をしたことはない。・・・指揮者の朝比奈隆氏はたいへんな高齢になっても現役で活躍していた。元気であるが、これだけの高齢である。腰をおろして指揮して・・・、と言われることがすくなくないらしい。そんなとき朝比奈氏は、はっきり、指揮は立っていなくてはできません、すわっていては、音楽が生まれないでしょう、といった意味のことをのべて断ったという。さすがだと思ってきいた。」
「いざ立て」は、8ページほどの文。
その中ごろに、
「ある評論家が、原稿はすべて立って書く、腰をおろして書いたのでは文章に力が入らない、勢いがなくてダメだ、と断言するのをきいて・・・」という箇所がありました。
新刊では「ある歴史学者」で、文庫では「ある評論家」。
ある評論家というとき、私に思い浮かんだのは清水幾太郎でした。
ですが、「ある歴史学者」といわれると、どなたか思い迷います。
どちらの文にも、コタツが登場しているのがミソ。
ちょうど今頃の季節に、読むのに、ピッタリ。
寒いといえば、つい、読んだばかりの関容子著「日本の鶯」(岩波現代文庫)に
「・・・とお笑いになり、階下へ降りていらっしゃった。
『ああ、書庫は火の気がないから、寒かった。老骨冷え易く、学成り難しだね。この学成り難しという言葉は便利ですよ。何にでもくっつけるとサマになりますから』と冗談をおっしゃりながら・・・」(p241)
そういえば、どこかに立ち机の図があったなあと、身近で探す。
渡部昇一著「知的生活の方法」(講談社新書)の
「4-知的空間と情報整理」のはじまりには絵があり
(各章に絵がついているのでした)そこに
「ライデン大学の図書館(オランダ、1610年)」とあり、
図書館の本を立って読んでいる図が載っているのでした。
一冊が大きな辞典のようでもあり、それを傾斜がある立ち机に置いて
人が立って読んでいる図です。
このくらいにして、
以前、外山滋比古著「フェスティナ・レンテ いそがば回れの生き方論」(創知社・1981年)と題した本がありました。その題名「フェスティナ・レンテ」には振り仮名がついていて「ゆっくり急げ」とありました。
今回の新刊の題名が「ゆっくり急ぐ」。
「急げ」と「急ぐ」。
ファンは、これだけでも、つい買っちゃうのでした(笑)。
そのファン心理というのは、どうなんでしょうね。
つい、言葉につまって、ゲゲゲのグググ。
発行が2010年12月となっておりました。
ちなみに初出が1981年~1997年までの連載となっておりました。
新刊を買ってしまうのは、私がファンだから。
う~ん。追っかけのようにして、今回も
つい、新刊を買ってしまいました。
まあ、それはそれとして、この新刊の
最初は「立ち居ふるまい」という3ページの文。
はじまりは、
「人前での話は立ってする。腰をおろすようにとすすめられても従ったことはない。・・・学校の授業でも少人数のゼミなどでは立ったりしてはおかしいけれども、普通のクラスなら腰かけたりしない。立っていた方が力が入り、勢いもつくような気がする。」
さて、このすぐあとからが本題でした。
「だいぶ前のことになるが、ある歴史学者から、うちでは机に椅子はない。立って本を読む、立って原稿を書く。そのために机をとくべつに作ってある。立った方が仕事にはりがあるのだ、というような話をきいて、たまげたことがある。その人の書くものに独特な迫力があるのは、そうした書斎と無関係ではないのだろうと解釈した。・・・」
そういえば、外山滋比古著「ちょっとした勉強のコツ」(PHP文庫)には「いざ立て」という文が掲載されておりました。そのはじまりは
「講演をするとき、こちらが年をとっているからか、いたわるつもりであろうか、主催者が、どうか椅子に腰をかけてお話しになってください、などということがときどきある。もちろん、一度だって、腰かけて講演をしたことはない。・・・指揮者の朝比奈隆氏はたいへんな高齢になっても現役で活躍していた。元気であるが、これだけの高齢である。腰をおろして指揮して・・・、と言われることがすくなくないらしい。そんなとき朝比奈氏は、はっきり、指揮は立っていなくてはできません、すわっていては、音楽が生まれないでしょう、といった意味のことをのべて断ったという。さすがだと思ってきいた。」
「いざ立て」は、8ページほどの文。
その中ごろに、
「ある評論家が、原稿はすべて立って書く、腰をおろして書いたのでは文章に力が入らない、勢いがなくてダメだ、と断言するのをきいて・・・」という箇所がありました。
新刊では「ある歴史学者」で、文庫では「ある評論家」。
ある評論家というとき、私に思い浮かんだのは清水幾太郎でした。
ですが、「ある歴史学者」といわれると、どなたか思い迷います。
どちらの文にも、コタツが登場しているのがミソ。
ちょうど今頃の季節に、読むのに、ピッタリ。
寒いといえば、つい、読んだばかりの関容子著「日本の鶯」(岩波現代文庫)に
「・・・とお笑いになり、階下へ降りていらっしゃった。
『ああ、書庫は火の気がないから、寒かった。老骨冷え易く、学成り難しだね。この学成り難しという言葉は便利ですよ。何にでもくっつけるとサマになりますから』と冗談をおっしゃりながら・・・」(p241)
そういえば、どこかに立ち机の図があったなあと、身近で探す。
渡部昇一著「知的生活の方法」(講談社新書)の
「4-知的空間と情報整理」のはじまりには絵があり
(各章に絵がついているのでした)そこに
「ライデン大学の図書館(オランダ、1610年)」とあり、
図書館の本を立って読んでいる図が載っているのでした。
一冊が大きな辞典のようでもあり、それを傾斜がある立ち机に置いて
人が立って読んでいる図です。
このくらいにして、
以前、外山滋比古著「フェスティナ・レンテ いそがば回れの生き方論」(創知社・1981年)と題した本がありました。その題名「フェスティナ・レンテ」には振り仮名がついていて「ゆっくり急げ」とありました。
今回の新刊の題名が「ゆっくり急ぐ」。
「急げ」と「急ぐ」。
ファンは、これだけでも、つい買っちゃうのでした(笑)。
そのファン心理というのは、どうなんでしょうね。
つい、言葉につまって、ゲゲゲのグググ。