荒川洋治著「日記をつける」(岩波現代文庫)を読み始める。
その出だしを読んでいると、ああ、やっと荒川洋治の面白さが、すこしつかめた気分になる。前に山本善行著「古本のことしか頭になかった」をひらいていたら、「荒川さんの著作を長年愛読してきた」(p71)という箇所があって、それが理解できない私でした。それが、「日記をつける」を読み始め、すこし取っ掛かりがつかめるような気がします。
私の手ごたえは、こんな感じかなあ。
「詩」という砥石で、言葉を研いでいると、いつのまにか、こういう文章が書けるようになるのじゃないか。そんな手ごたえ。へんに余白へと、余韻をまきちらさずに、余白が空白のまま立っているようなすがすがしさ(なに言ってるのだろうね)。
ああ、こういう文章を書きたいなあ。と思わせるものがあります。
なんてね。さてっと、この手ごたえを大切にとっておきましょう。
ところで、ひとつだけ引用しておきましょう。
それは「日記からはじまる」という文にありまして、
幸田文に触れた箇所でした。
「これはものごとが、いったん『ことば』になるということである。『興味を持つ』ということそのものがひとつの『ことば』に変わるのだ。ものごとだけでは、じきに沈んでしまう。『ことば』になることで、文章は羽根をつける。四方に飛び散っていくのだ。思考もひろいところへ出ていくのだ。読む人をうるおすものになるのだ。・・・ことばが回りはじめると、日記は動く。エッセイになる。」(p150)
その出だしを読んでいると、ああ、やっと荒川洋治の面白さが、すこしつかめた気分になる。前に山本善行著「古本のことしか頭になかった」をひらいていたら、「荒川さんの著作を長年愛読してきた」(p71)という箇所があって、それが理解できない私でした。それが、「日記をつける」を読み始め、すこし取っ掛かりがつかめるような気がします。
私の手ごたえは、こんな感じかなあ。
「詩」という砥石で、言葉を研いでいると、いつのまにか、こういう文章が書けるようになるのじゃないか。そんな手ごたえ。へんに余白へと、余韻をまきちらさずに、余白が空白のまま立っているようなすがすがしさ(なに言ってるのだろうね)。
ああ、こういう文章を書きたいなあ。と思わせるものがあります。
なんてね。さてっと、この手ごたえを大切にとっておきましょう。
ところで、ひとつだけ引用しておきましょう。
それは「日記からはじまる」という文にありまして、
幸田文に触れた箇所でした。
「これはものごとが、いったん『ことば』になるということである。『興味を持つ』ということそのものがひとつの『ことば』に変わるのだ。ものごとだけでは、じきに沈んでしまう。『ことば』になることで、文章は羽根をつける。四方に飛び散っていくのだ。思考もひろいところへ出ていくのだ。読む人をうるおすものになるのだ。・・・ことばが回りはじめると、日記は動く。エッセイになる。」(p150)