鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)に
「犀のように歩め」という文(p56~58)あり。
その最後の箇所を引用。
「編集者は犀を見つけることが仕事のはずだが、実際にはその仕事の内実は、うわさの運搬である。その中で、目利きとして私の記憶に残る例外的な編集者は、戦中・戦後の林達夫、花田清輝、谷川雁である。司馬遷は早くから、千里の馬はいつの時代にもいるけれども、それぞれの時代に目利きが少ないと嘆いた。千里を行く馬は速いが、犀はのろい。しかし、ひとり千里を行くという点で、両者は共通である。」
「目利き」といえば、思い浮かぶのが、桑原武夫氏。
たとえば、「鶴見俊輔書評集成1」の最初にある「読書案内人」という講演記録。
そこでは、こうはじまっておりました。
「案内人といいますと、私が知っている人でいえば今西錦司さんがそうです。・・・・私を大学に拾ってくれたのは、桑原武夫さんという人です。・・桑原さんは会った初めから、『自分の中学校の友人で今西という男がいるが、彼は天才だと思うけど、いっこうに有名じゃあない』といってました。51年前の話です。自分の中学の同級生を『本当に優れた天才だと思う』、そういえることが、桑原さんの器量の大きさを示していると思います。・・・・」
「天才」という言葉は、そういえば、加藤秀俊氏も語っておりました。
それは、梅棹忠夫追悼文(サンケイ新聞大阪本社依頼)のなかでした。
「 ・・・思いつくままに列挙してゆけばキリがない。だが、わたしが梅棹さんの偉大さを感じるのは病を得て失明なさってから、「晩年」というにはあまりにも長い二五年ちかくを生き抜いたエネルギーであった。
働き盛りで突然に襲われる病魔。そして失明。ふつうの人間だったら、挫折し、呆然としてみずからを放棄するにちがいないような境遇に立たされていながら、梅棹さんは動ずることなく、冷静に毎日を生きられた。
もちろん人間のことだから、梅棹さんだってずいぶんお悩みになっただろう。失意落胆なさっただろう。だが、そうした弱い内面をわれわれに示されたことはいちどもなかった。親しさからあえて言わせていただくと、その落ち着きは憎らしいほどであった。この一〇年ほどのあいだ、わたしは梅棹さんを何回か訪ねたが、いつも食卓をかこみ、ワインを片手に学問を語り、時事を論ずること、若いころとすこしもかわっていなかった。
われわれの共通の師である桑原武夫先生は、ある日、君らみんな秀才だ、でも梅棹はちがう、アイツは天才だ、と名言を口になさったことがある。「生態史観」をはじめとする梅棹さんの発想は「天才」のそれであった。天命とはいえ、その天才を失ったことをわたしは悲しむ。」
では、天才が天才を評価するとは、どういうことなのか。
1992年の「中央公論」8月号に梅棹忠夫による「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」という文が掲載されたのでした。
そこから、一箇所引用。
「・・探検隊の行動中においても、かれは読書を欠かさなかった。大興安嶺やモンゴルの探検行でも、キャンプ地に到着して、わかい隊員たちがテントの設営や食事の準備にいそがしくたちはたらいているあいだ、今西はおりたたみ椅子に腰かけて、くらくなるまで読書をした。今西は予備役の工兵少尉であったから軍装の一式はそろえていた。探検隊でもつねに軍用の将校行李をたずさえていたが、そのなかにはいっているのは大部分が書物だった。朝になって若者たちがテントの撤収をおこなっているあいだもかれは読書をつづけた。冬のモンゴル行においてもそうであった。零下20度の草原で西北季節風がびょうびょうとふきながれるなかで、かれは泰然として読書をつづけていた。」
たかがマイナス1度くらいで、夜はすぐに布団にもぐりこむ私が、あえて引用するような箇所ではない。というのは、重々承知しております。はい。
そういえば、日めくりカレンダーの1月21日には、こうありました。
「知る者は言わず言う者は知らず」。
「犀のように歩め」という文(p56~58)あり。
その最後の箇所を引用。
「編集者は犀を見つけることが仕事のはずだが、実際にはその仕事の内実は、うわさの運搬である。その中で、目利きとして私の記憶に残る例外的な編集者は、戦中・戦後の林達夫、花田清輝、谷川雁である。司馬遷は早くから、千里の馬はいつの時代にもいるけれども、それぞれの時代に目利きが少ないと嘆いた。千里を行く馬は速いが、犀はのろい。しかし、ひとり千里を行くという点で、両者は共通である。」
「目利き」といえば、思い浮かぶのが、桑原武夫氏。
たとえば、「鶴見俊輔書評集成1」の最初にある「読書案内人」という講演記録。
そこでは、こうはじまっておりました。
「案内人といいますと、私が知っている人でいえば今西錦司さんがそうです。・・・・私を大学に拾ってくれたのは、桑原武夫さんという人です。・・桑原さんは会った初めから、『自分の中学校の友人で今西という男がいるが、彼は天才だと思うけど、いっこうに有名じゃあない』といってました。51年前の話です。自分の中学の同級生を『本当に優れた天才だと思う』、そういえることが、桑原さんの器量の大きさを示していると思います。・・・・」
「天才」という言葉は、そういえば、加藤秀俊氏も語っておりました。
それは、梅棹忠夫追悼文(サンケイ新聞大阪本社依頼)のなかでした。
「 ・・・思いつくままに列挙してゆけばキリがない。だが、わたしが梅棹さんの偉大さを感じるのは病を得て失明なさってから、「晩年」というにはあまりにも長い二五年ちかくを生き抜いたエネルギーであった。
働き盛りで突然に襲われる病魔。そして失明。ふつうの人間だったら、挫折し、呆然としてみずからを放棄するにちがいないような境遇に立たされていながら、梅棹さんは動ずることなく、冷静に毎日を生きられた。
もちろん人間のことだから、梅棹さんだってずいぶんお悩みになっただろう。失意落胆なさっただろう。だが、そうした弱い内面をわれわれに示されたことはいちどもなかった。親しさからあえて言わせていただくと、その落ち着きは憎らしいほどであった。この一〇年ほどのあいだ、わたしは梅棹さんを何回か訪ねたが、いつも食卓をかこみ、ワインを片手に学問を語り、時事を論ずること、若いころとすこしもかわっていなかった。
われわれの共通の師である桑原武夫先生は、ある日、君らみんな秀才だ、でも梅棹はちがう、アイツは天才だ、と名言を口になさったことがある。「生態史観」をはじめとする梅棹さんの発想は「天才」のそれであった。天命とはいえ、その天才を失ったことをわたしは悲しむ。」
では、天才が天才を評価するとは、どういうことなのか。
1992年の「中央公論」8月号に梅棹忠夫による「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」という文が掲載されたのでした。
そこから、一箇所引用。
「・・探検隊の行動中においても、かれは読書を欠かさなかった。大興安嶺やモンゴルの探検行でも、キャンプ地に到着して、わかい隊員たちがテントの設営や食事の準備にいそがしくたちはたらいているあいだ、今西はおりたたみ椅子に腰かけて、くらくなるまで読書をした。今西は予備役の工兵少尉であったから軍装の一式はそろえていた。探検隊でもつねに軍用の将校行李をたずさえていたが、そのなかにはいっているのは大部分が書物だった。朝になって若者たちがテントの撤収をおこなっているあいだもかれは読書をつづけた。冬のモンゴル行においてもそうであった。零下20度の草原で西北季節風がびょうびょうとふきながれるなかで、かれは泰然として読書をつづけていた。」
たかがマイナス1度くらいで、夜はすぐに布団にもぐりこむ私が、あえて引用するような箇所ではない。というのは、重々承知しております。はい。
そういえば、日めくりカレンダーの1月21日には、こうありました。
「知る者は言わず言う者は知らず」。