朝日新聞の暮れから新年にかけての古新聞をもらってきました。
読みたかったのは、1月4日の文化欄。
関川夏央の「やりきれなさ美しく 高峰秀子さんを悼む」という文でした。
はじまりは、
「 昭和の戦前戦後を通じて、
日本映画全盛期を象徴する女優だった。
きれいな人だった。
賢い人だった。
子役から大女優への道を歩いた
希有な人でもあった。 」
こういう簡潔な文体での追悼文。張り詰めた感触がつたわります。
つい、引用したくなります。
「 愛称は『デコ』、
男の子役もこなして『秀坊』とも呼ばれた。
不満があるときタヌキ寝入りするので
『ゴテ秀』でもあったが、
天才子役として名を馳せた。
彼女が出るだけで客は喜び、
大いに泣いた。
・・・・・・
養母は、秀子と自分の人格を同一視し、
経済的には秀子に寄生した。
『気の毒なほど気がまわる』
『かわいそうなくらい利口』
といわれた彼女は、
いわば『たたかう勤労少女』だった。 」
ここまで、引用したのですから、最後の箇所も(笑)。
「 『浮雲』公開直後、
『デコと成瀬(巳喜男)にとって、最高の仕事』
と評した手紙を、
彼女は小津安二郎から受けとった。
そこには
『早く40歳になって、僕の仕事にも出て下さい』
とあった。
63年、小津が60歳の誕生日に亡くなったとき
彼女は39歳だった。
高峰秀子は79年まで実り多い『映画渡世』
をつづけたが、
この一事だけはいまだに悔やまれてならない。」
ちなみに、
日経新聞1月3日最後のページ文化欄に佐藤忠男の
「戦後の心に染みた名演技」。
各映画に沿った具体的な指摘をしており丹念的確。
産経新聞は産経抄(1月3日)で取り上げておりました。
そのはじまりは、
「日本映画を代表する名女優だった高峰秀子さんは、
大変な名文家でもあった。半生を綴った
『わたしの渡世日記』などの作品を正月休みに読み直して、
あらためて思う。・・・・・・」
読売新聞の追悼は河原畑寧(1月4日)。
産経新聞は1月5日に品田雄吉の追悼談話。
ひとつ選ぶなら、
私は関川夏央の文でいいや。
読みたかったのは、1月4日の文化欄。
関川夏央の「やりきれなさ美しく 高峰秀子さんを悼む」という文でした。
はじまりは、
「 昭和の戦前戦後を通じて、
日本映画全盛期を象徴する女優だった。
きれいな人だった。
賢い人だった。
子役から大女優への道を歩いた
希有な人でもあった。 」
こういう簡潔な文体での追悼文。張り詰めた感触がつたわります。
つい、引用したくなります。
「 愛称は『デコ』、
男の子役もこなして『秀坊』とも呼ばれた。
不満があるときタヌキ寝入りするので
『ゴテ秀』でもあったが、
天才子役として名を馳せた。
彼女が出るだけで客は喜び、
大いに泣いた。
・・・・・・
養母は、秀子と自分の人格を同一視し、
経済的には秀子に寄生した。
『気の毒なほど気がまわる』
『かわいそうなくらい利口』
といわれた彼女は、
いわば『たたかう勤労少女』だった。 」
ここまで、引用したのですから、最後の箇所も(笑)。
「 『浮雲』公開直後、
『デコと成瀬(巳喜男)にとって、最高の仕事』
と評した手紙を、
彼女は小津安二郎から受けとった。
そこには
『早く40歳になって、僕の仕事にも出て下さい』
とあった。
63年、小津が60歳の誕生日に亡くなったとき
彼女は39歳だった。
高峰秀子は79年まで実り多い『映画渡世』
をつづけたが、
この一事だけはいまだに悔やまれてならない。」
ちなみに、
日経新聞1月3日最後のページ文化欄に佐藤忠男の
「戦後の心に染みた名演技」。
各映画に沿った具体的な指摘をしており丹念的確。
産経新聞は産経抄(1月3日)で取り上げておりました。
そのはじまりは、
「日本映画を代表する名女優だった高峰秀子さんは、
大変な名文家でもあった。半生を綴った
『わたしの渡世日記』などの作品を正月休みに読み直して、
あらためて思う。・・・・・・」
読売新聞の追悼は河原畑寧(1月4日)。
産経新聞は1月5日に品田雄吉の追悼談話。
ひとつ選ぶなら、
私は関川夏央の文でいいや。