和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

高峰秀子。

2011-01-10 | 短文紹介
朝日新聞の暮れから新年にかけての古新聞をもらってきました。
読みたかったのは、1月4日の文化欄。
関川夏央の「やりきれなさ美しく  高峰秀子さんを悼む」という文でした。
はじまりは、

「 昭和の戦前戦後を通じて、
  日本映画全盛期を象徴する女優だった。
  きれいな人だった。
  賢い人だった。
  子役から大女優への道を歩いた
  希有な人でもあった。     」

こういう簡潔な文体での追悼文。張り詰めた感触がつたわります。
つい、引用したくなります。

「 愛称は『デコ』、
  男の子役もこなして『秀坊』とも呼ばれた。
  不満があるときタヌキ寝入りするので
  『ゴテ秀』でもあったが、  
  天才子役として名を馳せた。
  彼女が出るだけで客は喜び、
  大いに泣いた。
  ・・・・・・
  養母は、秀子と自分の人格を同一視し、
  経済的には秀子に寄生した。
  『気の毒なほど気がまわる』
  『かわいそうなくらい利口』
  といわれた彼女は、
  いわば『たたかう勤労少女』だった。 」

ここまで、引用したのですから、最後の箇所も(笑)。

「 『浮雲』公開直後、
  『デコと成瀬(巳喜男)にとって、最高の仕事』
  と評した手紙を、
  彼女は小津安二郎から受けとった。
  そこには
  『早く40歳になって、僕の仕事にも出て下さい』
  とあった。
  63年、小津が60歳の誕生日に亡くなったとき
  彼女は39歳だった。
  高峰秀子は79年まで実り多い『映画渡世』
  をつづけたが、
  この一事だけはいまだに悔やまれてならない。」


ちなみに、
日経新聞1月3日最後のページ文化欄に佐藤忠男の
「戦後の心に染みた名演技」。
各映画に沿った具体的な指摘をしており丹念的確。
産経新聞は産経抄(1月3日)で取り上げておりました。
そのはじまりは、
「日本映画を代表する名女優だった高峰秀子さんは、
大変な名文家でもあった。半生を綴った
『わたしの渡世日記』などの作品を正月休みに読み直して、
あらためて思う。・・・・・・」
読売新聞の追悼は河原畑寧(1月4日)。
産経新聞は1月5日に品田雄吉の追悼談話。
ひとつ選ぶなら、
私は関川夏央の文でいいや。
コメント
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