松岡正剛著「白川静」(平凡社新書)で、そういえば、松岡さんは、こう指摘しておりました。「これはまだ十分な明治短歌史の研究がないところなんですが、鉄幹や正岡子規が万葉に憧れ、それがアララギの伝統になったというのは、私はどうも橘曙覧の影響が大きかっただろうと思っています。」(p119)
ということは、与謝野鉄幹晶子を介して、橘曙覧と堀口大學とが結びつくのじゃないか。
ということで、買ってあった関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)を読了。ふう~、思っていたのとは別の、素敵な展望がひろがっていて、読んでよかった。こういう聞き書きは、別に最初から読んでいかなくても構わなくて(私なら、第9章『子供のときから作文が得意』から読んでもいいのじゃないかとお薦めします)。私はこの第9章からの言葉の景色が好きだなあ。
さてっと、第1章に与謝野鉄幹・晶子とのことが出ておりました。
こんな箇所がありました。
「佐藤(春夫)も僕も、新詩社でしばらくは短歌をつくっていたんだが、いくらつくってみても晶子先生の大天才という天井に頭をぶつけるだけで、その足元にも及ばない、という感じが深まるばかりだったんだね。・・・ある日寛先生が二人にこうおっしゃったんです。
『君たちはまだ若いんだし、短歌という定型だけでは、これからの君たちの思想なり感情なりを表現するのに不足なもの、窮屈なものと感じる時が必ず来ると思う。だから、短歌とあわせて、詩の勉強もしておくべきだな』短歌の紐でつないでおいては、だんだん息苦しくなって居心地が悪くなってくるといけないとお思いになったんでしょうね。
寛先生ご自身、晶子先生の大才の前にやはりお苦しい時があったかもしれない。僕は寛先生の最高のお歌は決して晶子先生のものにひけはとらないと思っていますけどね。・・」(p17~18)
さて、この本の題名にもなった堀口大學訳「日本の鶯」を引用しながら、聞き役の関容子さんが見た短冊のことを語っている箇所も、引用しておきます。
「 日本の鶯
彼は御飯を食べる
彼は歌を歌ふ
彼は鳥です
彼は勝手な気まぐれから
わざとさびしい歌を歌ふ
――― マリー・ローランサン
私はこの詩に接した時、いつも先生の座右に掛けてある恩師与謝野寛の、直筆の短冊の歌が、自然と思い浮かんできた。
大學よわかきさかりに逸早く
秋のこころを知ることなかれ 寛
」(p178)
ということは、与謝野鉄幹晶子を介して、橘曙覧と堀口大學とが結びつくのじゃないか。
ということで、買ってあった関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)を読了。ふう~、思っていたのとは別の、素敵な展望がひろがっていて、読んでよかった。こういう聞き書きは、別に最初から読んでいかなくても構わなくて(私なら、第9章『子供のときから作文が得意』から読んでもいいのじゃないかとお薦めします)。私はこの第9章からの言葉の景色が好きだなあ。
さてっと、第1章に与謝野鉄幹・晶子とのことが出ておりました。
こんな箇所がありました。
「佐藤(春夫)も僕も、新詩社でしばらくは短歌をつくっていたんだが、いくらつくってみても晶子先生の大天才という天井に頭をぶつけるだけで、その足元にも及ばない、という感じが深まるばかりだったんだね。・・・ある日寛先生が二人にこうおっしゃったんです。
『君たちはまだ若いんだし、短歌という定型だけでは、これからの君たちの思想なり感情なりを表現するのに不足なもの、窮屈なものと感じる時が必ず来ると思う。だから、短歌とあわせて、詩の勉強もしておくべきだな』短歌の紐でつないでおいては、だんだん息苦しくなって居心地が悪くなってくるといけないとお思いになったんでしょうね。
寛先生ご自身、晶子先生の大才の前にやはりお苦しい時があったかもしれない。僕は寛先生の最高のお歌は決して晶子先生のものにひけはとらないと思っていますけどね。・・」(p17~18)
さて、この本の題名にもなった堀口大學訳「日本の鶯」を引用しながら、聞き役の関容子さんが見た短冊のことを語っている箇所も、引用しておきます。
「 日本の鶯
彼は御飯を食べる
彼は歌を歌ふ
彼は鳥です
彼は勝手な気まぐれから
わざとさびしい歌を歌ふ
――― マリー・ローランサン
私はこの詩に接した時、いつも先生の座右に掛けてある恩師与謝野寛の、直筆の短冊の歌が、自然と思い浮かんできた。
大學よわかきさかりに逸早く
秋のこころを知ることなかれ 寛
」(p178)