外山滋比古氏の本を読んでいると、編集と編集者のことが、あらためて気になりだすのでした。ということで、非売品の編集者の本があったりすると、つい買うことがあります。最近もありました。「和田恒 追悼文集 野分」。
それを、パラパラとめくっていたら、自然薯を掘って持ってこられた、と回顧する方が散見するのでした。ちょうど、読売新聞1月17日に俳句の年間賞という箇所があって、そこで宇多喜代子氏の選で句が載っておりました。
自然薯掘る考古学者のごとく掘る 埼玉県 酒井忠正
同じ編集者として宮脇俊三氏が「温顔」と題して書いておりました。
それは「中公新書」にまつわる話。
せっかくですから、引用していきましょう。
はじまりは
「昭和36年8月、中央公論社で発行していた週刊誌が売行き不振で休刊になり、編集部が解散した。部員たちは、それぞれ他の部署へ移っていったが、その一部は和田君や私のいた出版部に配属された。それを機に出版部は二つに分割され、私が新生の第二出版部をあずかることになった。・・・部長の私が34歳という若さであった・・・部員たちはみな私より齢下であった。編集会議は、いつも難航した。・・・当時は新書判が出版界の花形で、『岩波新書』と『カッパ・ブックス』とが天下を二分し、今日の文庫のような隆盛を示していた。・・・空理空論が駆けめぐるに最上のグランドであった。・・・会議がくり返えされ、具体性のある議題へ進むことはなかった。会議の進め方についての意見をガリ版で刷って配る部員も現れたが、かえって火に油を注いだ。・・・その中にあって、和田君は醒めていた。議論の空転を戒める発言を、しばしばした。それは若い部の青い雰囲気のなかでは勇気のいることだったにちがいない。けれども、温厚な和田君の人柄は、トゲトゲしかった部員たちの気持ちを和らげ、沈静させてくれた。和田君がいなかったなら、私は沈没していただろう。そして、今日、中央公論の大きな支えの柱となっている『中公新書』の創刊も覚束なかったろう。・・・・」
その中公新書といえば、桑原武夫・加藤秀俊・梅棹忠夫・司馬遼太郎などの著作が、すぐに思い浮かぶのでした。
さてっと、この「追悼文集」なのですが、寄稿された文よりも、そのお名前がすごいので、すこし列挙しときましょう。
弔辞が大野晋。あとは有名な方だけ、加太こうじ・加藤秀俊・上坂冬子・司馬遼太郎(ちなみに、「司馬遼太郎が考えたこと 11」に掲載されてもおります)・田中美知太郎・外山滋比古・永井道雄・西尾幹二・野口武彦・芳賀綏・松田道雄・丸谷才一・渡部昇一・・・・・。
和田恒氏は昭和6年生まれとあります。昭和5年生まれの渡部昇一氏の追悼文をすこし引用。
「和田さんの特別の好意を感じた。和田さんは外山滋比古さんの本を出したら予想外に売れたということを特に喜んでおられたようである。その余沢が私にも及んだ感じであった。・・・・・五十にもなると、共に老いてつき合える人柄というものが重要に思われてくるものである。共に老いて、親しくつき合いたいと思う知友の中でも、和田さんは特に大切な人だった。・・・」
さてここに、加藤秀俊著作集を刊行することが、加藤秀俊氏の文にありました。
「・・・わたしが、いよいよ本格的に和田さんといっしょにしごとをさせていただけるチャンスにめぐまれたのである。というのは、中央公論社から、わたしの『著作集』をつくらないか、という厚意あふれるお申出をいただき、その企画がうごき出すにあたって、和田さんが担当部長ということになったからである。和田さんは、あの控え目な温顔でわたしをじっと見つめ、加藤さん、いい本をつくりましょうよ、とおっしゃった。いままでのわたしの経験からいうと、本をつくる、ということは著者だけのしごとではない。本つくりは、編集者と著者との共同作業であり、そして、すぐれた編集者にめぐまれたとき、わたしのような怠惰な人間は、はじめて執筆にとりかかり、編集者からの助言や忠告によって、まがりなりにも、とにかく本を書くことができるのである。著者が原稿用紙にむかってペンを走らせていれば、しぜんと本がつくられてゆく、などとかんがえる人がいるとしたら、それは大きなまちがいなのだ。
わたしの『著作集』といっても、ふりかえってみれば、それはけっしてひとさまに自慢できるようなものではないし、むしろ、恥多きしごとの屑カゴのごときものである。・・・和田さんはそれを手助けしてくださるはずなのであった。ところが、ご存知のような理由で、和田さんとは、さいしょの一、二回の打ちあわせをごいっしょしただけ。あとは、病床に臥されたという・・・・奇しくも、『著作集』の最終配本の見本が岩田さんの手によってわたしのところに届けられたその日に、帰宅してみると、この追悼文集への寄稿のおさそいがきていた。・・・・・このしごとに和田さんはほとんど直接にタッチされなかった。しかし、わたしの立場からいうなら、ほんとうは、この晴れがましい『著作集』は和田さんに捧げられなければならない性質のものなのである。・・・」
加藤秀俊著作集の月報は、普通の著作集の月報とは違っていました。加藤秀俊ご本人が毎回書いているのを載せているのみ。それが後で一冊の「わが師わが友」となるのでした。
とりあえず、私は気になって加藤秀俊著作集の内容見本を古本屋へと注文。
それを、パラパラとめくっていたら、自然薯を掘って持ってこられた、と回顧する方が散見するのでした。ちょうど、読売新聞1月17日に俳句の年間賞という箇所があって、そこで宇多喜代子氏の選で句が載っておりました。
自然薯掘る考古学者のごとく掘る 埼玉県 酒井忠正
同じ編集者として宮脇俊三氏が「温顔」と題して書いておりました。
それは「中公新書」にまつわる話。
せっかくですから、引用していきましょう。
はじまりは
「昭和36年8月、中央公論社で発行していた週刊誌が売行き不振で休刊になり、編集部が解散した。部員たちは、それぞれ他の部署へ移っていったが、その一部は和田君や私のいた出版部に配属された。それを機に出版部は二つに分割され、私が新生の第二出版部をあずかることになった。・・・部長の私が34歳という若さであった・・・部員たちはみな私より齢下であった。編集会議は、いつも難航した。・・・当時は新書判が出版界の花形で、『岩波新書』と『カッパ・ブックス』とが天下を二分し、今日の文庫のような隆盛を示していた。・・・空理空論が駆けめぐるに最上のグランドであった。・・・会議がくり返えされ、具体性のある議題へ進むことはなかった。会議の進め方についての意見をガリ版で刷って配る部員も現れたが、かえって火に油を注いだ。・・・その中にあって、和田君は醒めていた。議論の空転を戒める発言を、しばしばした。それは若い部の青い雰囲気のなかでは勇気のいることだったにちがいない。けれども、温厚な和田君の人柄は、トゲトゲしかった部員たちの気持ちを和らげ、沈静させてくれた。和田君がいなかったなら、私は沈没していただろう。そして、今日、中央公論の大きな支えの柱となっている『中公新書』の創刊も覚束なかったろう。・・・・」
その中公新書といえば、桑原武夫・加藤秀俊・梅棹忠夫・司馬遼太郎などの著作が、すぐに思い浮かぶのでした。
さてっと、この「追悼文集」なのですが、寄稿された文よりも、そのお名前がすごいので、すこし列挙しときましょう。
弔辞が大野晋。あとは有名な方だけ、加太こうじ・加藤秀俊・上坂冬子・司馬遼太郎(ちなみに、「司馬遼太郎が考えたこと 11」に掲載されてもおります)・田中美知太郎・外山滋比古・永井道雄・西尾幹二・野口武彦・芳賀綏・松田道雄・丸谷才一・渡部昇一・・・・・。
和田恒氏は昭和6年生まれとあります。昭和5年生まれの渡部昇一氏の追悼文をすこし引用。
「和田さんの特別の好意を感じた。和田さんは外山滋比古さんの本を出したら予想外に売れたということを特に喜んでおられたようである。その余沢が私にも及んだ感じであった。・・・・・五十にもなると、共に老いてつき合える人柄というものが重要に思われてくるものである。共に老いて、親しくつき合いたいと思う知友の中でも、和田さんは特に大切な人だった。・・・」
さてここに、加藤秀俊著作集を刊行することが、加藤秀俊氏の文にありました。
「・・・わたしが、いよいよ本格的に和田さんといっしょにしごとをさせていただけるチャンスにめぐまれたのである。というのは、中央公論社から、わたしの『著作集』をつくらないか、という厚意あふれるお申出をいただき、その企画がうごき出すにあたって、和田さんが担当部長ということになったからである。和田さんは、あの控え目な温顔でわたしをじっと見つめ、加藤さん、いい本をつくりましょうよ、とおっしゃった。いままでのわたしの経験からいうと、本をつくる、ということは著者だけのしごとではない。本つくりは、編集者と著者との共同作業であり、そして、すぐれた編集者にめぐまれたとき、わたしのような怠惰な人間は、はじめて執筆にとりかかり、編集者からの助言や忠告によって、まがりなりにも、とにかく本を書くことができるのである。著者が原稿用紙にむかってペンを走らせていれば、しぜんと本がつくられてゆく、などとかんがえる人がいるとしたら、それは大きなまちがいなのだ。
わたしの『著作集』といっても、ふりかえってみれば、それはけっしてひとさまに自慢できるようなものではないし、むしろ、恥多きしごとの屑カゴのごときものである。・・・和田さんはそれを手助けしてくださるはずなのであった。ところが、ご存知のような理由で、和田さんとは、さいしょの一、二回の打ちあわせをごいっしょしただけ。あとは、病床に臥されたという・・・・奇しくも、『著作集』の最終配本の見本が岩田さんの手によってわたしのところに届けられたその日に、帰宅してみると、この追悼文集への寄稿のおさそいがきていた。・・・・・このしごとに和田さんはほとんど直接にタッチされなかった。しかし、わたしの立場からいうなら、ほんとうは、この晴れがましい『著作集』は和田さんに捧げられなければならない性質のものなのである。・・・」
加藤秀俊著作集の月報は、普通の著作集の月報とは違っていました。加藤秀俊ご本人が毎回書いているのを載せているのみ。それが後で一冊の「わが師わが友」となるのでした。
とりあえず、私は気になって加藤秀俊著作集の内容見本を古本屋へと注文。