和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

12年ぶりの絵本。

2011-01-09 | Weblog
今年になって、シリーズ5巻目の最新作が発売になっておりました。
島田ゆかの絵本「バムとケロ」シリーズのことです。
1999年に、シリーズ4巻目「バムとケロのおかいもの」が出て。それから、もう12年です。こちらは、すっかり待つのも忘れておりました(笑)。けれども、シリーズ最新作のこの絵本をひらけば、いつものバムとケロがいつものようにベッドからおきて、いつものように食べながら、少しずつふえる仲間とともに出かけているのでした。今回は、木苺つみにでかけてからの物語。そこで、木の上にある古い小屋を発見。それをきれいにかたづけ、皆で集まっての「星をみる会」までのテンマツです。細かい描きこみが、後半になればなるほど、またしても最初のページをもどって見直さなきゃ、と思わせる。それも、いままでどおりのお楽しみ。くもの巣がはって、枯れ葉が散乱する古い小屋の修繕では。ペンキを塗る際に、一面に床に敷く古新聞さえもが、なにやら登場人物?の記事になっていたり、ちらかしているのか、あたらしくしているのか、わからないような部屋の乱雑さは、いつもの見どころとなっております。その部屋に散乱する遊び道具が、いかにもありそうでないような、なさそうでもあるような不思議な空間を演出しているのでした。
こうしてストーリイをお話しても、とにかくも手にとってご覧にならなければ、ちっともわからないのが、この絵本の面白さの味わい。まるで楽しい間違い探しのようでもあります。つぎの巻が登場するまで、さて、この絵本のシリーズをまとめて見直すといたしましょう。そのうちまた、本棚で、次の巻が出るまで、埃をかぶることになるのだろうなあ。

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上人(しょうにん)。

2011-01-09 | 短文紹介
昨年の暮。飲み会で若い真言宗のお坊さんと話す機会がありました。
何でも地元の真言宗のお坊さんが、子がいないので、その檀家を引き継ぐために来ているとのこと。現在はアパート暮らしで、ときどき京都の修業のお寺にもどったりしているというような様子を聞きました。そのときは、この若い方は、足を骨折していたのに、いっしょになって、たのしく飲みました。
そういえば、空海を読んだことがないなあ。今年読みたいなあ。
そんなことを思いながら、さらに聞きながら、私がかってに思っていたのは「上人」ということばでした。親鸞上人というのがある。
その上人について、簡潔に説明している人がいたのですが、
それが誰だったのか、思い出せない。
そんなに読んでいないので、簡単にさがせます。
ということで、今年になって思い出して、
梅原猛著「誤解された歎異抄」
山折哲雄著「親鸞をよむ」「『教行信証』を読む」
で確認してみたのですが、その箇所がない。
ああ、そうか。と思って
司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」をひらいてみました。
ここに、あった。簡単にみつかったのですが、
こうして、気になる箇所がみつかるとうれしいですね。
ということで、すこしその前後を引用。


「一説に、東北地方、白河以北に正規の僧侶が行ったのは、元禄時代だと言います。それには異論があると思いますが、だいたい東北の仏教というのは、羽黒山あたりの修験者が支えていたんです。伊達政宗が生れるときに、伊達政宗は、いまの山形県の土着の貴族ですから、安産の祈願とか、いろいろご祈祷を頼みますと羽黒山の修験者のような人が来ます。正規の坊さんではないのです。羽黒山の修験者は民間宗教なものですから、正規の僧侶ではありません。その正規の僧侶でない人を、敬称を付けて、どう呼ぶのかと言うと、『上人』と呼ぶのです。
いまは、日本語が紊乱しまして、上人と言うと、偉い人のようにきこえますが、上人というのは資格を持たない僧への敬称であって、たとえば空海上人とは言いませんし、最澄上人とは言いません。最澄(767~822)も空海も有資格者だからで、無資格者に対してはたとえば親鸞上人というふうに敬称します。ただ親鸞の場合は、ときに聖人(しょうにん)と書きます。聖と言うのは乞食坊主のことです。
聖と賤は紙の表裏だとよく言いますが、聖というのは、普通、中世の言葉では、正規の僧の資格を持たない、乞食坊主のことをいいました。だから尊くもありました。
親鸞の師匠の法然の場合は、ちょっと微妙です。法然は正規の戒を受けて、正規の叡山の僧侶であったにもかかわらず、それを捨て、黒谷の里に下りて来て、大衆に説法したということで、当時、評判だったのです。
だから、当時の人は『知恵第一の法然坊』とよく言いました。それは要するに高文を通った人が、そのへんで乞食しているという意味です。その驚きと尊敬を込めて、法然に対しては上人と言います。」

じつは、司馬遼太郎氏のこの文は「浄土  日本的思想の鍵」というのですが、
この後、たいへん印象的な箇所がつづくのでした。
ということで、また引用。


「以下はたいへん文化人類学的な、あるいは民俗学的な話です・・
・・・・・・・・
日本の仏教は正規の坊さんが、葬式の主役であったことは本来ないんです。だいたい仏教に、葬式というものはありません。お釈迦さんが、葬式の世話をしたり、お釈迦さんの偉い弟子達が、葬式のお経を読んだという話も聞いたことがありません。またずっと下がって日本仏教の、最初の礎であった叡山の僧侶が、関白が死んだからといって、お葬式するために出かけて行ったということもありません。
いまでも奈良朝に起こった宗旨は、お葬式をしません。たとえば奈良の東大寺の官長が死のうが、僧侶が死のうが、東大寺のなかでお経をあげません。そのための坊さんが奈良の下町にいて、それを呼んで来て、お経をあげさせる。それはお上人ですから東大寺の仲間には入れていません。
葬式をする坊さんというのは、非僧非俗の人、さっきのお上人・お聖人でした。つまり親鸞のような人です。また叡山を捨てた後の法然も、そういう立場の人だったわけです。非僧非俗、つまりお医者で言えば、無資格で診療しているようなものです。さきほどの東北の羽黒山の修験者も浄土真宗と関係ありませんが、非僧非俗では同じといえます。
 だから日本仏教には、表通りには正規の僧侶がいて、裏通りには非僧非俗がいて――つまり官立の僧と私立の僧がいて――どっち側が日本仏教かということも、思想史的に重要な問題です。私は鎌倉以後は非僧非俗のほうが日本仏教の正統だったと思います。・・・」


また、引用が長くなりました。
それにしても司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」の「無用」に、いつも思い出しては、ハッとさせられる。そのことに、あらためて気づかされるのでした。
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