1月5日は消防団の出初式。
昨年3月まで消防団員でした。
今年は表彰の関係で、
来賓席にすわっておりました。
よい天気で、よかった。
それが12時前に終わり、帰ってから
ラーメンつくって、コタツで寝ちゃいました。
以前消防団に入っていたころ、
出初が終わってからは、飲み会で、その際、
地区の年配の方に聞いていたのですが、
昔は、天皇陛下のお言葉の代読があったとか。
そこで、1月1日に掲載されていた
「天皇陛下が昨年詠まれた歌」というのを
見ると、最後に「奄美大島豪雨災害」がありました。
被災せる人々を案じテレビにて豪雨に広がる濁流を見る
出初式もけっこう代読が多いのですが、
同じ代読でも、陛下の歌の代読なら聞きたいなあ、
と思ったりするのは私だけかなあ。
さて、新聞の陛下の歌のあとには皇后さまの歌があります。
そこに「はやぶさ」を歌ったものがあります。
その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝かに明かるかりしと
ここで、思い浮かべるのは美智子皇后著「橋をかける」でした。
そこに引用される弟橘媛(おとたちばなひめ)の歌。
さねさし相模の小野に燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
この美智子皇后さまの
国際児童図書評議会世界大会の基調講演について、
いま、私に思い浮かぶのは、徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女」(文春新書)。
この1999年の箇所に載っております(p250~251)。
そこにある徳岡氏の文はというと。
「日本の高校の歴史教科書は、従軍慰安婦のことは教えても日本武尊(やまとたけるのみこと・または倭建命)については一言も教えない。だが『古事記』が語る物語は生き生きと躍り、その躍動感は今日読む者にも伝わる。弟橘媛は日本武尊の后である。彼は天皇ではないが、妃ではなく后と書いて万事天皇に准じている。」
さて、これから以後は、この講演があってから、一般常識となったので、省いてもいいのでしょうが、もう一度引用しておきましょう。
「日本武尊は東国平定の戦旅で走水(はしりみず)から船で浦賀水道に出たとき、波風が騒いで遭難しそうになった。そのとき海中に身を投じて海神の怒りを鎮め夫を救ったのが弟橘媛である。日本武尊は使命を果たして西へ帰る途次、足柄の峠で亡き妻を偲んで『あづまはや』と三度嘆いた。足柄より東の東国を『あづま』(吾妻)と呼ぶのは故事に拠るという。」
このあとの徳岡孝夫氏の指摘が、印象に残ります。
それが「はやぶさ」の一首を読んだときに思い浮かんだのでした。
その徳岡氏の言葉は。
「何にびっくりしたかというと、この古歌に皇后の覚悟を見たからである。彼女は夫に万一のことがあった場合、身を捧げる覚悟をなさっている。その心構えを、弟橘媛の歌に託して言われたのであろう。あの方は尋常の人ではない。」
せめて、こういう機会に「尋常の人ではない」方を思い描く。
さて、ここで話題をかえて、
歌といえば、読売新聞の1月3日は
月曜日なので読売歌壇・読売俳壇があり、
さらに、その選者の新春詠も掲載されて読み応えがありました。
たとえば、俳壇の矢島渚男選の3句目にこうありました。
シンプルな句を作れよと冬晴るる 横浜市 谷口一好
選評はこうでした。
「冬晴れの空を見上げていると、シンプルな句を作れと言われているような気がする。そう、できるならば俳句は単純なほうがいい。言葉はやさしく、心は深く。」
さて、その矢島渚男の「新春詠」は3句。
その3句目に、呼応してるような、こんな句。
青空の瑕漌(かきん)もよけれ初詣
ここで、やっぱり
岡野弘彦氏の短歌も一首引用。
海原に生(あ)れいづる日は、
いたつきの身をいたはれと
われに直射(たださ)す
今年の初日の出は、海岸まで出かけずじまい。それでも、
暮れから新年にかけて、朝日が窓を通して部屋の奥へととどいてきます。
昨年3月まで消防団員でした。
今年は表彰の関係で、
来賓席にすわっておりました。
よい天気で、よかった。
それが12時前に終わり、帰ってから
ラーメンつくって、コタツで寝ちゃいました。
以前消防団に入っていたころ、
出初が終わってからは、飲み会で、その際、
地区の年配の方に聞いていたのですが、
昔は、天皇陛下のお言葉の代読があったとか。
そこで、1月1日に掲載されていた
「天皇陛下が昨年詠まれた歌」というのを
見ると、最後に「奄美大島豪雨災害」がありました。
被災せる人々を案じテレビにて豪雨に広がる濁流を見る
出初式もけっこう代読が多いのですが、
同じ代読でも、陛下の歌の代読なら聞きたいなあ、
と思ったりするのは私だけかなあ。
さて、新聞の陛下の歌のあとには皇后さまの歌があります。
そこに「はやぶさ」を歌ったものがあります。
その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝かに明かるかりしと
ここで、思い浮かべるのは美智子皇后著「橋をかける」でした。
そこに引用される弟橘媛(おとたちばなひめ)の歌。
さねさし相模の小野に燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも
この美智子皇后さまの
国際児童図書評議会世界大会の基調講演について、
いま、私に思い浮かぶのは、徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女」(文春新書)。
この1999年の箇所に載っております(p250~251)。
そこにある徳岡氏の文はというと。
「日本の高校の歴史教科書は、従軍慰安婦のことは教えても日本武尊(やまとたけるのみこと・または倭建命)については一言も教えない。だが『古事記』が語る物語は生き生きと躍り、その躍動感は今日読む者にも伝わる。弟橘媛は日本武尊の后である。彼は天皇ではないが、妃ではなく后と書いて万事天皇に准じている。」
さて、これから以後は、この講演があってから、一般常識となったので、省いてもいいのでしょうが、もう一度引用しておきましょう。
「日本武尊は東国平定の戦旅で走水(はしりみず)から船で浦賀水道に出たとき、波風が騒いで遭難しそうになった。そのとき海中に身を投じて海神の怒りを鎮め夫を救ったのが弟橘媛である。日本武尊は使命を果たして西へ帰る途次、足柄の峠で亡き妻を偲んで『あづまはや』と三度嘆いた。足柄より東の東国を『あづま』(吾妻)と呼ぶのは故事に拠るという。」
このあとの徳岡孝夫氏の指摘が、印象に残ります。
それが「はやぶさ」の一首を読んだときに思い浮かんだのでした。
その徳岡氏の言葉は。
「何にびっくりしたかというと、この古歌に皇后の覚悟を見たからである。彼女は夫に万一のことがあった場合、身を捧げる覚悟をなさっている。その心構えを、弟橘媛の歌に託して言われたのであろう。あの方は尋常の人ではない。」
せめて、こういう機会に「尋常の人ではない」方を思い描く。
さて、ここで話題をかえて、
歌といえば、読売新聞の1月3日は
月曜日なので読売歌壇・読売俳壇があり、
さらに、その選者の新春詠も掲載されて読み応えがありました。
たとえば、俳壇の矢島渚男選の3句目にこうありました。
シンプルな句を作れよと冬晴るる 横浜市 谷口一好
選評はこうでした。
「冬晴れの空を見上げていると、シンプルな句を作れと言われているような気がする。そう、できるならば俳句は単純なほうがいい。言葉はやさしく、心は深く。」
さて、その矢島渚男の「新春詠」は3句。
その3句目に、呼応してるような、こんな句。
青空の瑕漌(かきん)もよけれ初詣
ここで、やっぱり
岡野弘彦氏の短歌も一首引用。
海原に生(あ)れいづる日は、
いたつきの身をいたはれと
われに直射(たださ)す
今年の初日の出は、海岸まで出かけずじまい。それでも、
暮れから新年にかけて、朝日が窓を通して部屋の奥へととどいてきます。