和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

極めて簡単。

2011-01-15 | 短文紹介
毎日ブログを更新しようとすると、ついつい(笑)、
中途半端な文を書いているなあ、と思うのでした。

さて、昨日の外山滋比古氏の新刊についての追記。
すこし注釈がいると思ったわけなのでした。
思い浮かんだのは、西田幾多郎の言葉でした。

「回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。
 その前半は黒板を前にして坐した、
 その後半は黒板を後ろにして立った。
 黒板に向って一回転をなしたといえば、
 それで私の伝記は尽きるのである。」

     「西田幾多郎随筆集」(岩波文庫)p10

外山滋比古氏も、仕分けをすれば、この黒板組なのでした。
それが、文章にもあらわれておりますので、
それを、嫌う方には、なんとも鼻持ちならない文ともなるかもしれません。ですが、それを差し引いても、得るところ豊かな文なのであります。
と、これを追伸のかたちで、書いておきます。

それから、「極めて簡単」という言葉で思い浮かぶのは、
清水幾太郎著「私の文章作法」でした。
その「第八話 落語の教訓」にこんな箇所。

「私が生まれた、東京の日本橋には、近所に寄席が二つ三つあって、よく父親に連れて行って貰いました。近頃の新作落語と違って、古い落語の多くは、ただゲラゲラとお客を笑わせるものではなかったように思います。笑わせながら、同時に、人生というものの悲しさの中へ私たちを導き入れたように思います。それは幼い小学生の私にもよく判りました。
いや、そういう問題は、別の機会にお話するとして、大切なのは、落語には、どこにも無駄がないという点です。『相変わらず、古いお笑いを一席申し上げます』と言ったかと思うと、調子を変えて、『与太郎や・・・』という風に本題に入ってしまいます。長い前置きや弁解などありません。最後まで、どこにも無駄な言葉はありません。かつては無駄な言葉もあったのかと思いますが、長い歴史の中で一つ一つ削り落されて、エッセンスだけが残っているのでしょう。それが伝統というものです。もちろん、文章を眼で読むのと、落語を耳で聞くのとでは、大きな違いがあります。しかし、無駄をなくすこと、退屈する隙間を残さないこと、これは双方に通じる話であろうと思います。・・・」


その「無駄をなくすこと」を旗印に、
外山滋比古氏は、モンテーニュや徒然草からの伝統にのっとって、この一冊を書いておられました。

それを何といったらよいのだろうなあ。
重要なテーマを、手作りの言葉で掘り出しておられる。
こういう「極めて単純」なテーマを磨いてくださいと語りかけてくるように。

コメント
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